芸術的ストーカー映画

イメージフォーラムで「シルビアのいる街で」を見る。文句なしに立派なストーカー映画なんだけど、不気味さや陰鬱さはひとかけらも感じることなく、唯物的ともいえる豊穣な描写イメージに目が釘付けになってしまった。日光や街のざわめきによって刻々変化する風景とともに画面に映る男性と女性の一挙手一投足が3D専用メガネを借りることなく、スクリーンのない実際の場所にて目の前で繰り出されているような錯覚を覚える。「アバター」を見た時の頭痛はここでは発作せず、自然体験に近い平面体のままでの立体感を楽しむ事ができた。映画は3Dにしなくても2Dで十分人間の目を騙すことができることをこの映画は証明してくれる。いや、このことは映画生誕のときから今日まで行われてきているのである。カフェのシーンが素晴らしい。主人公の男性の視線と視線の向こう側の光景の綿密で正確な戯れが延々と続く独特なリズム感は今までにはなかった。この映画は男性が女性に付いて行く時や路面電車のシーンのように流動的な運動イメージが多く使われているが、それと同等に固定ショットも印象的な場面を多く映している。固定ショットでは冒頭から何回か出現しているびっこをひく花束をもった若者、舗道で空きビンに囲まれているホームレスらしき中年女性、公園のベンチで座っている初老、顔に深い切り傷の跡がある電車を待つ女性など、主人公の映画的な美男美女とは外面のギャップがある現実の街の人々の姿が監督の意識的な感じで映っている。主人公の画家とシルビアと間違われる美しい女性は「6年前にあなたと会った」といい、「私はシルビアではないし、あなたは知らない」という。この有り様は、まるでアラン・レネの「ヒロシマモナムール」のようだ。「ヒロシマモナムール」でも原爆投下後の広島市民を周辺におき、フランス人女優と日本人建築家の美男美女が「きみは広島を見てない」「私は見た」を繰り返す。この何ともいえない美男美女と周辺の人々という構造は引き継がれているようにも見えるが、これは映画的現実とでもいうしかないものなのだろうか。