D・V教信者の告白

最近、絵画制作とは別の副業を始めたぐらいでブログ更新がおろそかになってしまうなんて、僕はなんてダメダメ人間なんだろうとつくづく思うこの頃である。さて、久しぶりのブログはもちろん映画感想だ。てゆーか、精神的余裕をもてない現在の俺は映画を観てあれこれ言うことしかできない貧しい人間である。
アテネフランセで昨夜の「キノ・プラウダNo.1−9」だけでなく、4日前に「11年目」、先週の土曜日に「世界6分の1」とこれまで未見だったジガ・ヴェルトフの映画を立て続けに見る(「カメラを持った男」は何回見たかわからない)。某学会の狂信的な信者にも劣らないくらいジガ・ヴェルトフ教の信者である僕は、この1週間何にも代え難い至福な数時間を共に暗闇のなかで過ごせたわけである(念仏を唱えたわけではない)。このブログでかねがねろう者である僕とサイレント映画の蜜月な関係を表明してきたけど、ジガ・ヴェルトフの映画体験ほど、僕自身の日々の行動原理と映像の運動原理が見事なまでにマッチングすることは他のサイレント映画にはなかなかない。ジガ・ヴェルトフの<映画眼>という思想と、日常生活に視覚的行動を中心に置かざるをえない僕自身の身体性からくる、視覚を上位に置くという根源的姿勢がスクリーンのはざまで時空を超えて共振する。「世界は見ることで成り立っている」ことをまさに実感し、大いに勇気をもらうのである。でもいつかはジガ・ヴェルトフ教の信者を辞める(卒業)時が来なければならないかもしれない。その為には自ら映画を撮るということになるのだろうか…。誰か一緒にやってくれる方いませんか?ところで、ジガ・ヴェルトフの映画と若松孝二の映画ってなんか似ているような気がするのは僕だけでしょうか?当時のイデオロギー(どちらも革命、左翼ですね)に対する愚直な姿勢から最高にイカす映画を生み出すエネルギーと感覚的な何か。愚直だからこそ閉塞的な現代に求められるカッコよさが、どちらの映画にも持っているのだと僕は思う。