「お引越し」

「おめでとうございます、おめでとうございます…」
早朝の琵琶湖の浅瀬で、主人公レンコが連呼(ん?名前と同じだ…)するこの謎めいたモノローグは、この映画のなかで唯一僕が読み取れた台詞だ。いつも通りに僕は日本映画を台詞やナレーションの内容をわからないまま観るのだが、運動原理主義者である相米慎二の映画なら、これもいつも通りに何のためらいもなく喜んで観に行ってしまう。だが、「おめでとうございます」の台詞をたまたまわかってしまったとたん、スクリーンの向こうの世界が急に無限的に広がっていき、僕の知覚全体が互いにリンクし動き出してしまった。その時に僕の内部から溢れだした情動は生命的なものによって引き起こされてきたように思えた。レンコは離婚を避けられないまでにお互いの心が離れてしまった両親のいざこざに振り回されるが、琵琶湖の祭りの現実とも幻影ともつかない体験を通して悟りの境遇にたどりつき、「おめでとうございます」と晴れ晴れしい表情で叫ぶ。最初、レンコは両親が別居するだけで深刻には受け止めていなかったようだが、母(桜田淳子は本当にきれいな方でした)から名字が変わることを告げられたり、2人での新生活のルールを決めたりしていくなかで、次第に心に変化が生じていく。外の世界でも両親の知人のカップルの修羅場を目撃し、学校では情緒不安な行動を起こしてしまう。夏のあいだ、レンコは様々な経験をし、怒りや悲しみを越えて大人の不可解な世界を受け入れる。台詞の内容によって、レンコが大人の世界とはこういうことなのだということを周りの人たちと接していくことで理解していくプロセスが観客に第一に伝達されるのかもしれないが、僕の場合はちょっと違う。多少はシチュエーションによって登場人物同士の関係やストーリーが推測できるが、レンコの空間を横断する数々の行動がほとんど荒唐無稽に映り、小学生であるレンコの夏の短い期間のなかの成長スピードも画面越しに感じとれる。レンコの身体と行動そのものだけを凝視するしかないが、同時に視覚的悦楽をもたらしてくれる。琵琶湖の祭りで母に再会したレンコは母に向かって今までのことを許すようなことを伝えるその時、唐突にしゃがみこむ。これは明らかに生理であり、大人の世界を受け入れると同時にレンコ自身も大人になっていく。精神と身体が一緒に大人に向かって成長していくのだが、僕にとってのレンコは視覚的運動を表象する人物であるがゆえに、精神を持つレンコより身体としてのレンコがすこし上回ったのである。 空間のなかで多方向に行き来、あるいは伸縮する自由奔放な運動が「おめでとうございます」に収斂し、僕はレンコの全てを知ることができたのである(と思う)。レンコは大人になった自分にむかって祝福したのだ。