「灼熱の肌」

「あなたに共感するわ。何故なら私も女だから。」
ポールの恋人であるエリザベート(猫背が可愛らしい)は禁断の逢瀬を告白するアンジェラにこう言う。アンジェラ(1964年生まれ!)から袖にされ失意のどん底にくれるフレデリックのそばに寄り添うポールの行動にエリザベートは堪忍袋の緒が切れ、決定的に別れようと荷物をもって部屋を飛び出す。結局はポールに連れ戻されたあと2人でパリに戻り子供をもつことになる。男にとって女の言動ほど不可解なものはないし、その逆も然りである。だが、男と女がいる空間では愛という不条理かつとてつもない強力な引力が発生してしまう。結婚も含めて世の中の社会的ならわしというものがなかったならば、愛のエモーションしか残されていない。しかし、人間の男と女は言葉と生活を持っている以上、すべてが本能的になされるわけにはいかない。映画のなかの男二人女二人は理性的なものと本能的なものの一線をすれすれに行き戻りしつつ、どこに転ぶかわからないまま現在をあるがままに生きている。エリザベートとポールは子供を生んだことによって愛の形を変えていく。フレデリックは失意から立ち直れないまま一線を越えてしまうことになるのだが、唐突にフレデリックの祖父が病室に現われる。愛がとても苦しいのなら死に至ることも致し方ないとあっけらかんにつぶやく祖父は、実は亡き者の設定であり孫を彼岸の向こうへ誘っているように見えなくもない(本作が遺作になってしまったそうだ)。祖父の後ろの窓から差し込む自然光が神々しいほどに美しい。愛は人生においてポジティブなものでもネガティブなものでもなく生死を凌駕してしまう2人だけの世界そのものとして描かれているが、ガレルは祖父の登場(ポールの政治的活動も含めて)によってその愛の空間にコミュニズム的空間を付随させる。相反する内的世界と外的世界だが、ガレルにとっては愛することと世界を変革することは同一な出来事でしかない(「自由、夜」「恋人たちの失われた革命」)。ガレルはたびたび映画内に私的空間を導入する。ガレルの映画を観るということは、愛と芸術は同類のものでありどちらも主観的にしか生まれないのだという思いを一層強固なものにすることであると思う。