「略称・連続射殺魔」

舗道がまだ整備されていない地方の街らしき中で、祭りの参列が寂しげに進むところから始まるこの映画は、ノンフィクションの装いを最後まで脱ぐことなく、日本が高度成長期の最中にあった時代の風景のみを約90分にわたって写し続ける。何の変哲もない一地方の街があれば、エネルギッシュな都会の風景もある。地方の片隅でジョギングや通学の風景を執拗に撮影したかと思えば、都会の早朝では、牛乳配達の風景ばかりが写し出される(おかげで、明治・森永・雪印の三大牛乳メーカーの名前が僕の脳にインプットされてしまった)。バラック、新幹線、カフェの求人募集、軍事パレード、米軍基地、ナイトバーの室内風景、活気あふれる港、みすぼらしいアパートの一部屋などあらゆる風景がランダムに、あるいは陽と陰のイメージをない交ぜしながら編集し繋ぎ合わされていく。それらの風景は1968年に連続射殺事件を起こした永山則夫が事件前後に彷徨った道程に沿ってカメラに収められた一人称の視線の向こうにある風景となっている。だが、もちろんその一人称の視線の持ち主は永山ではなく、この映画を撮った足立正生である。永山が眺めたであろう風景を写し続けるこの映画は事件の背景となる永山自身の出自や心境に接近していくという、凡庸なテレビディレクターが考えそうな体を為しているようにもみえる。しかし、この映画はそんな生易しいモチベーションとは遥かに隔たった、共犯的ともいえる異様な雰囲気が漂っている。きらびやかな軍事パレードや新幹線を陰で覗き、ジョギングや通学の健康的に振る舞う者たちをなめ回すような負の感覚。約90分にわたる風景の連なりは永山の辿った道程という関連性を超えて、足立自身の視線による風景になっている。永山のとった行動にシンパシーをもった足立による政治的ともいえる思想の映画と言ってもいいだろう。