マウジング2

前のブログで、指文字+手話よりもマウジング(音声なしの口型)を優先してしまうのがろう者の実際の状況であると書いたが、より正確に言えば指文字+手話を使う時でもマウジングがともなってしまう。つまり、指文字+手話、指文字を使わない手話(例「パソコン」>キーボードを叩く動作に「パ」の指文字を付けるか付けないかの違い)のどちらにも限らずマウジングが自動的に付帯してしまう。新しい手話に多い指文字+手話は人工言語な感じがするとも書いたが、高度情報化社会での言葉の細分化、専門化が進行している現在においてはろう社会も例外ではなく、指文字+手話の普遍化を免れないのも事実である。日本語の借用システムのひとつである指文字によって手指の形態を細分化していく。マウジングを優先してしまうろう者でも指文字+手話を使うことはよくある。新しい手話の指文字+手話には、ろう者の手話使用状態に合うのと合わない(無理がある、不自然)のがあって、ろう者の手話リズム、音韻体系に合うのであれば、その指文字+手話は定着していく。「課(部)長」「資格」「エイズ」「ワイン」などがあり、最近では「ツイッター」が受け入れられている(微妙な例は「ラーメン」「スーツ」)。日本語対応手話使用者は指文字+手話を積極的に受け入れていくのに対して、日本手話使用者(ろう者)は最初はいったん新しい手話を受け入れてとりあえず使ってみるが、なじまなくなると自然消滅(非定着)していく。今後も指文字+手話はさらに増大していく可能性は否定できないが、指文字+手話の有無にかかわらずろう者の手話において、マウジングは必要不可欠な言語要素のひとつになっている。日本語教育の影響が少ない高齢のろう者はマウジングをあまり使わないが、教育環境から生活環境まで広汎に日本語の影響を受けるようになった50、60代までのろう者はほとんどマウジングを抜きにして手話を使うことはないだろう。指文字もマウジングも日本語借用システムであるが、言語の経済性としてはマウジングのほうが上回っていると思う。指文字+手話と指文字を使わない手話のどちらにも限らずマウジングが現れてしまうように、マウジングは指文字の記号的意味を覆い被さってしまう。マウジングは口型表現であり日本語使用時と手話使用時とともに同じ運動原理を端にしている。それに対して指文字は手指表現であるので純粋な視覚言語の表現に見えるかもしれないが、日本語の五十音を変換し可視化したものでしかない。つまり指文字は表音で手話は表意ということになる(手話は文字を持たない話し言葉のみなので、この場合は空間表意が相応しいかも)。ではマウジングとは何なのか。音声は剥離されたが、手話使用時に言語変化が起こるように、たんに日本語の形骸化というレベルではすまされない何かがある(読唇術とは全く違う価値観)。言語の経済性と日本語の借用システムの他にマウジングの特性はあるのだろうか。ここまでくると何かマウジングそのものが得体の知れないもののよう感じてくる。日本語という音声言語と日本手話という視覚言語のあいだにある裂け目から出現した歪みなのか、それとも音声言語と視覚言語の境界を行き来する流動的なものなのか、マウジングを使う僕はまだ何にもわからない。ただ、マウジングによって他者に伝達できるという身体的な感触だけがある。言語によって他者とつながり、言語と身体は一体化していることだけは確かである。