「告白的女優論」

吉田喜重フィルモグラフィーを大きく3つに分けるとすれば、松竹大船時代、現代映画社初期、ドキュメンタリー製作〜現在といったところか。フィルモグラフィー晩期の「人間の約束」「鏡の女たち」はブランクを感じさせないほどの大傑作で衝撃をくらったのだが、私個人的には、現代映画社初期の作品群がとても面白く、吉田喜重の最高に(ポップに)輝いていた時期だったと思う。僕のなかで吉田喜重といえば、「エロス+虐殺」「煉獄エロイカ」の2本なのだが、今回のレトロスペクティブで見た映画のなかで僕の脳に強く焼き付いたのは、「告白的女優論」である。(とはいえ、他の作品もそれぞれ素晴らしい)

「告白的女優論」は一言でいえば、“デザイン”の映画というのが、僕の印象である。吉田喜重が松竹から独立して、現代映画社の作品として撮った映画には厳密な画面構成が際立つ。モノクロ画面では、光と影、ハイキーとローキーの調度に目を奪われるのだが、カラー映画である「告白的女優論」では、森英恵の衣装デザインに加え人物と物体のシャープな配置方法が洗練されたデザインのポスターやモンドリアンの絵画を連想させる。特に室内シーンの時に、画面の四隅に人物(顔)をぎりぎり置くやり方が目につく。人物の動きでさえ緻密に計算された構図は画面内だけではなく物語展開にも緊張感をもたらしている。3つの物語が展開するこの映画で、異なる文脈が切り替わる時に同じあるいは似た画面構図を前後に用意し別空間へとなめらかに移行していく見事な技法は、まさに時間のデザインである。吉田喜重の強固な思想や語りの強度が実験的な構図を単なる形式にとどまらせていないことは、画面から明らかに伝わってくる。内実は形式をもたらす、形式は内実なくしてはありえないとはこのことであるのだろう。3人の女優が別々の文脈に派生し、3つの物語が交錯していくのだが、ラストでは一堂に会する。3人のプライベートの何やらでどろどろした濃密なそれぞれの文脈が最後の最後のわずかの場面に合流し、ゴージャスな3人の女優が一列に並んでカメラに向かって歩きながら映画が終わる。この映画構成にはホントにやられたって感じであり、何故か高揚した気分がするのだ。感動という類いのものではなく、清々しさや潔さという感覚に近い。映画と女優はどこまでいっても虚構でしかなく、現実の世界も同じようなもんだよ。だから1人の時はどろどろした人間関係で深刻ぶっていたけど、3人揃えばそんなのはあっさり忘れてしまうしかない、という具合に。
“デザイン”ともうひとつ、“ヨーロッパ”という印象も拭いがたい。森英恵の衣装のことではなく、映画的感覚のことである。ゴダールの「軽蔑」からの引用と思われる場面(ロケ撮影、浴室など)があるし、室内劇はファスビンターそのものだし、清々しいラストはトリフォーを思わずにはいられない。こんな愉しい映画が日本にもあったのだと、ささやかな興奮を胸の中でしばらくの間ためておくだろう。