「ドアーズ/まぼろしの世界」

ろう者である僕なのだが、信じがたいことにこの映画でドアーズの音楽を完璧に聴くことができた(補聴器をつけてはいたけど、物音的レベルでしかない)。聴者やドアーズのファンから「そんなわけねーだろ!」と罵倒されたり、失笑を買ったりされても、一向にかまわないほど僕のなかでは確信にみちている。リアルタイムの映像のみで編集されたこの映画では、ドアーズが世に出現した60年代末の当時のあまたの映像の断片を通してドアーズの音楽が本当に聴こえてくる。決して視覚によるアレゴリーなんかではない。僕の身体が正直に感じたのだ。これを幻聴と言い換えてもかまわないのだが、ドアーズの音楽を聴くことはまさしく幻聴の体験をすることに他ならないのだと、この映画を見て強く感じる。ドアーズを映した映像とともに公民権運動、ヒッピー、ベトナム戦争への反戦運動など60〜70年代に隆盛したムーブメントのニュース映像が洪水のように流れてくるのだが、実際の出来事であるにもかかわらず、それらの映像はまぼろしに過ぎない幻視的イメージの瓦礫にも見えてしまうようなあやふやな歴史的感覚がともなう。だが、当時の事実をまぎれもなく映しているそれらの映像とドアーズを映した映像が錯綜していくと、当時の不確実で混沌とした空気感とドアーズの破滅的な音楽が成るべくして見事にマッチングしていたことが感じられる。変革を求めるムーブメントの底に流れる人間の持つ不安や矛盾あるいは不条理といった本質的なものを、ジム・モリソンの狂気とドアーズの音楽は理性ではなく感性のところ(技巧からも含む)から表現していたように思う。60年代末の混沌としたアメリカに出現したドアーズは、濃密な精神的媒体としてロックを選択し、アメリカ的価値の全面崩壊と新たな構築が同時進行していくダイナミズムを体現していた。トム・ディチロ監督のオリジナル映像のみを使用するというコンセプトのおかげで、こうして僕は眼で見ることだけでドアーズの音楽を本当に聴くことができたのである。映像も音声もノイズこそ本質的なものなのかもしれない。
今思い出したのだが、高校生のときにオリバー・ストーン監督、ヴァル・キルマー主演の「ドアーズ」を見たことがある。その頃、当時僕の兄が入っていたバンドのリーダーとその映画について話した時、「あまり面白くなかった」と言ってそのリーダーをとてもガッカリさせた記憶が蘇ってきたのだが、映画の出来はともかくあの一言は今となっては猛烈に後悔している。