『雪夫人絵図』

映画を観に映画館へ行くタイミングがなかなか取れない代わりというわけではないが、本棚の中に長らく埋もれていた未見のDVD、しかも世界のミゾグチ、溝口健二の「雪夫人絵図」(1950年)というインパクトで、観るのなら今しかないでしょ!のモードに入り、やっと観れた。残念ながら日本語字幕の設定がなく(おそらくそのせいで買ってすぐには見ようとしなかったのだろう)、字幕なしでの観賞だったが、上映後僕の心は最高潮にしびれていた。全編にわたって濃密な画調がとぎれることなく、溝口世界を最後まで堪能することが出来たのである。それにしても(モノクロ画面という条件を差し抜きしても)溝口は何故こんなにも女優を美しく描けるのだろうか?画面に映る女優は内面から湧き出る女性の生理的、あるいは、根源的な美しさに満ち溢れている。この映画の主人公、木暮実千代は身勝手な男たちの中で翻弄され、最後には入水自殺を遂げる雪夫人を演じるのだが、性的オーラがとても艶かしい。 

雪夫人が初めて画面に現れるシーンは、中が丸見えのたくさんの人でにぎわう大部屋と平行になっている廊下を挟んでカメラが横移動するのだがその途中、垂直的な階段が現れ、後ろに2人の芸妓を連れて静かに階段を降り、ふっと右の画面外に出るのだが、そのわずか10秒位の時間は止まったかのようであり、妖艶な空気感が瞬く間に一辺に拡がる。 この場面は脳の襞にふれ、僕は全身が身震いし、硬直してしまった。溝口は頽廃的、虚無的なイメージの中で女性を描くことが、本当のエロティシズムが出るのだと信じているふしがあるような気がしないでもない。誤解を恐れずに言えば、デカダンスの中で女性の真の美しさが現れ出ると言わざるを得ない。随所に出てくる箱根の風景、特にラストシーンの雪夫人が旅館を出て湖に向かう間の風景描写は、まるで水墨画をみているようだ。水の流れのように生きていく雪夫人(「雪」という名前がそうであるように)は常に「水」のあるところをさまよっている。箱根の芦ノ湖の周辺を散策し、絶望しきった時には山の麓に立ち込める視界を遮る深い霧の中を無心でさすらう。最後には水に帰り、湖周辺を漂う霧に還元していく液体の気化現象を当然の成り行きとして、溝口は迷いなく1人の女性を描写するのである。