ヴェルマ/アメリカ/ヘルマン

ノートパソコンの画面から始まる映画はとても緩慢なリズムを伴って進行していくのだが、自殺をほのめかす車のなかの女性の前でいきなり小型飛行機が湖に突入したあと、現実あるいは過去の一場面に戻されたかのように知覚したはずなのだが、映画が進行するにつれてその感覚が裏切られていくその快感は今までにはない映画体験だった。前回のブログに書いたように、ベロッキオの映像のなかの映像(今後は「映像内映像」と呼んでみたい)は強烈なまでに現前的なイメージであり続けたが、「果てなき路」でモンテ・ヘルマンが描く映像イメージからは、正体不明な何かがどこまでもつきまとう霧のなかから朦朧と映画のなかの映画という形骸がじわりと出現する。だが、この不可解なイメージはアメリカ映画の赤裸々な姿をも浮かび上がらせる。2つの時制を分つ目印や基軸というものはどこにも見当たらず、登場人物のいるところはあっち側なのか、それともこっち側なのかと思いめぐらすことは次第に無意味になっていく。それでも登場人物は現在のアメリカという空虚な場所に確実に存在している。ヨーロッパでもアジアでもアフリカでもなく、まして無国籍な場所であるはずはなく、まぎれもなくアメリカという空間のなかに登場人物はいるという無根拠ではあるけれど、確かな感触はある。アメリカは世界であり、世界はアメリカである。この確かな感触はあるのだがアメリカのなかにいる限り、終わりのないトンネルのなかをかろうじて一歩一歩踏み出すだけの絶望的空間が拡がるのみである。ミッチェルとローレル/ヴェルマがベッドの上で一緒に観る名画の数々のイメージは現実と映画の境界線が失われた不可解な時空間を一時的に断ち切るまばゆい光の集積となって現われる。老俳優からプエルトリコ系だとされたヴェルマの顔はどこかエキゾチックではあるけれど、繊細な表情やしぐさはこの映画のなかでどの登場人物よりも現在のリアルなアメリカ人像を見事なまでに具現化している。ヴェルマの顔とともにこの映画を観ているあいだ、何故か僕の頭の片隅にデヴィッド・リンチの映画イメージが次々と現われてくる。この映画とリンチの映画にはアメリカという場所から生じる同じ感覚が流れているような気がする。ヘルマンの眼差しの先には常にハリウッドが立ちはだかっている。ヘルマンのみならず、世界中の人々はハリウッドとともにこの世界に生きている。「何故、映画を撮るのですか?」と聞かれたヘルマンは、こう言うかもしれない。「そこにハリウッドがあるから」と。