ジャクソン・ポロック

東京国立近代美術館で「ジャクソン・ポロック展」を観る。ポロックの絵画にはドリッピングという、これまで(1940〜50年以前)の絵画技法にはなかった破壊的行為、あるいは制作プロセスという概念から生じてきた絵画イメージがキャンヴァス上に表現されているのだが、実際の作品を眼前にすると驚くほど静謐な雰囲気が漂う。破壊的なイメージを期待していた僕は、多少はぐらかされたような気分になる。アクション・ペインティングといえど完成後の作品の控えめにおっとりしているこのギャップな有り様が、奇妙な感覚を起こす。ポロックの制作風景を撮影したフィルム映像のほうがずっと破壊的なイメージが生起していて、僕はそれに引きつけられるようにスクリーンの前に長く居てしまった。この本末転倒な鑑賞はやはり僕の頭のなかでは映像的なものばかり向いていることの個人的事情なのか、それともアクション・ペインティングも結局は絵画的制度へと還元してしまうという宿命的な現れなのか、はとりあえず行き当たりばったりな僕自身の問題にしとこう。フィルムの荒々しい粒子的イメージやぶった切るような編集の助けもあると思うが、やはりアクション・ペインティングによる激しい身振りや常にタバコをくわえたままで、神経質的に何か考えているような仏頂面からくるポロック自身の存在から生じる一般人にはないオーラが、ただならぬ暴力的な印象を放っている。作品のオリジナル性からくるアウラより映像内のポロック本人のオーラのほうがはるかに凌駕している。

作品をしばらく凝視してみるとポロックのドリッピングは、実は破壊的な行為ではないことがわかる。キャンヴァスの四隅に余白が残されているのをみると、自由闊達なはずの絵具の模様はキャンヴァスの枠内に収まっているようにみえる。隅々まで水平に塗る絵画のほうがキャンヴァスの枠外をはみ出す感じをもっている。絵具を染み込ませた絵筆の飛沫がキャンヴァスの枠外に多少散ることはあっても、ポロックはあくまでもキャンヴァスの枠内だけに絵具を垂らすことに意識を集中していたのである。ドリッピング自体は偶然に任せるように絵具を滴らせるが、画面全体的にはコントロールしている。偶然的行為も蓄積していくと全体的なコントロールによって調和的あるいは秩序的イメージに落ち着いていく。床に置いたキャンヴァスに絵具を垂らすという絵画技法が西洋絵画史の常識を覆したことはまぎれもなく大事件であったのだが、キャンヴァス(または支持体)と対峙している限り絵画の世界からは逃れられないともいえる。だが、むしろ自ら(能動的に)絵画という制限のある世界にとどまろうとしている(晩年、ポロックは自作を前に「これは絵画なのだろうか?」と問いている)。自由と不自由の両義性を背負ったポロックはキャンヴァスを自身のいる世界に見立てて、絵具を何重にも垂らすことによって世界は変わり続ける(バージョンアップみたいな感じ)一方、何も変わっていない、極端に言えば世界のなかで生かされているという感覚を心の片隅に持ちながら作品を制作していたのかもしれない。ポロックはアクション的行為で自由を希求しながらも、制約されたなかでは死に向かって発狂するしかなかったのである。方法論的な価値はもちろんだが、ポロックという狂人の凄みが偉大な作品を次々と生んだのだと思う。(エド・ハリス監督、主演の映画「ポロック 2人だけのアトリエ」は傑作!)