サイレント映画の記憶

最近、3本のサイレント映画を観る機会があった。「キートンの大列車追跡」(バスター・キートン)、「アンダルシアの犬」(ルイス・ブニュエル)、「三面鏡」(ジャン・エプスタン)の三本だ。久しぶりのサイレント映画を目前にして、僕は神妙な心持ちになり身が引き締まる。聴覚を持たない我が身体をもって、対等に視覚のみを通じて勝負をのぞむことが出来る相手、それがサイレント映画なのだ。現在上映されるサイレント映画のなかには、サウンド版となっているものがあり、その場合僕は補聴器をオフにしてのぞむ。今回の「キートンの大列車追跡」と「アンダルシアの犬」もサウンド版だった。だが、「キートンの大列車追跡」はもっとひどかった。日本語字幕がついているのだが、サイレント映画特有の黒画面に字幕(製作国の本字幕)の時以外にもひたすら表示されている。サイレント映画には、トーキー映画とは違った沈黙の間があり(特に風景描写)、人物がなにかを喋る場面でも字幕は出ないことがしょっちゅうあるのだが、サウンド版ならばその場面に音楽あるいは音響を流すだろうが、その日本語字幕までしゃりしゃり出てきてしまうのだ。勝手に推測された台詞やナレーション的な解説文が厚かましくも観客を親切に導いているのだと言わんばかりに、画面の三分の一をしばしば占有する、その姿には本当にうんざりしてしまう。この自分勝手な日本語字幕は、日本独特の文化ともいえる活動弁士の仕事を文字化したものであり(聴者には申し訳ないが)、サイレント映画本来の姿を破壊してしまう邪道なものとしか見えない。 

上記の通り、僕は普段の映画を観るときは補聴器をつけるのだが、サウンド版のサイレント映画の時は、対象作品が無声の状態で創られたならば、見る側も無声の状態で観るのだというポリシーによって補聴器をつけない(サウンド版でないものはもちろんそのまま観る)。だが正直なところ、音声のある映画と比べて無音状態のサイレント映画を観た後は、その一場面あるいは部分的に印象に残る映画体験をしたとしても、しばらくすると全体的には記憶が薄れてしまうように感じることがある。音声のある映画のほうが、しばらくの長いあいだ物語の内容を記憶し続けていられる。補聴器をつけても聴者の一般的な聴力レベルの百分の一にも満たさない音声をかろうじて拾っているだけのろう者の僕でさえ、無声の映画より全体的な流れを思い出すことが出来る。人間の身体から生ずる知覚は、映画を観るときは聴覚と視覚が一体となり、あるいは合流して記憶を脳内に蓄積し、ある期間のあいだ保存されていくように機能されているからかもしれない。視覚単体、視覚と聴覚のコンビという知覚形態の違いによって生じてくる記憶の拠り所は、無声映画は一場面、部分、というのに対して音声映画は物語、全体となっているのではないだろうか。部分的な記憶よりも全体的な記憶のほうが映画的には脳のなかに長く付着しやすいのかもしれない。サイレント映画を本来的に無声のままで観る場合は、視覚単体のみに頼らざるをえなくなる。その時観る者は、映画の画面に瞬時的に接し、画面イメージも瞬時的に次々へと変化していく。つまりサイレント映画は音声に付く時間性を伴った余韻的なものがない為、線的(物語的)ではなく点的(瞬間的)な感じになるのではないか。(視覚的残像についてはどうだろうか?)音声のある映画に対して、サイレント映画はその場限りの視覚的な表現が出現しているのであり、映画を観る時のその瞬間しか表示しない。それでも記憶に残るのだとしたら、それこそ、本物の映画的記憶(視覚的な意味で)になるのではないか。その瞬間的であり強烈な映画的記憶がサイレント映画にはたくさんある(「アンダルシアの犬」と「三面鏡」はまさにそうだった)。全体的な記憶を忘却してしまうかわりに映画を観るその瞬間瞬間に密度の高い映画体験ができるのがサイレント映画の醍醐味なのだと思う。サイレント映画によく現れる指示性(次の展開に持っていくなど)を持った物語的な場面でも、瞬間的イメージであることに変わりはない。サイレント映画は物語の有無にかかわらず、物語的イメージを形成する蓄積、係累的なものを許さない。一画面のなかの視覚的効果を最高潮に達しつつ、瞬時的に表示することしかできない。映画音楽(音響)のように観客(世間)に配慮される客観的な身振りをサイレント映画は持たず、あくまでもフィルムの表層に映るイメージそのものしか我々に与えてくれない。つまり、サイレント映画は根源的に主観的な映画なのである。そう、映画生誕の時に、リュミエール兄弟が何の変哲もない風景を数多くカメラに撮ったように。