「ユキとニナ」

他者と対峙する時のとまどい。それが子どもであるがゆえに映画の内部と外部を分けたつ一線を突き破って全面的にさらけ出してしまう。両親が離婚するユキが出した仲直りしてほしいという内容の手紙を読んだ母親は激しく泣いてしまうのだが、その場にいたユキは映画のなかの流れにふさわしくない素振りを見せる。解決できないところまでいってしまった自分を責めるように嗚咽し続ける母親を前にしたとき、児童劇団で鍛えられた子役ならば、子どもにふさわしい慰め方をしたり、あるいは、いかにも悲しいという感じで沈黙したりするかもしれない。ところが、ユキはオーバーアクションをする母親に対して、どうすればいいかわからないそわそわした身振りを露呈してしまう。おおげさに言えば、「なんだこいつ、この母親役は?そこまで泣く必要があるん?」という感じなのだ。このような映画的連続体を切断してしまうシーンはベルイマンの「不良少女モニカ」の唐突なカメラ目線を彷彿させる。だが、ベルイマンのカメラ目線は監督自身の視線が重なり、作り手の思惑というものが多少なりあったのだが、このユキの戸惑いはハプニングそのものである。それにもかかわらず、ミステイクともいえるこの場面をあえて使用したのは、諏訪監督の現場主義から来るのかもしれないが、やはり、物語や映画の内外を自由に飛び越えるような強度があったからなのだろう。カサヴェテスや諏訪の即興演技中心の映画に出てくる大人の俳優によるハプニングは社会と自己のはざまにある葛藤が無意識的に伴ってくるのだが、ユキの戸惑いは社会に出る訓練をまだ受けていない子ども特有の純粋なハプニングとなっている。純粋で正直であるがゆえに残酷的でもある。この場面では親子関係ではなく、一人の子役と一人の女優が同じテーブルにすわっているだけの見知らぬ者同士の赤裸々な状態が映っている。映画の後半にフランスの森を抜けたユキは日本の子どもたちやおばあさんと家のなかでたむろするのだが、日本語を話すだけではなくしぐさまでがすっかり日本人的になっている。日本人の血が半分流れているハーフの子どもといえどもあまりにも自然体になっていたので、とても不思議な感じであった。このしぐさも映画や役の枠を突き抜けて生身の子どもが出現している。子どもとは大人にとって、得体の知れない不可思議な存在であり、また魅力的な存在でもあるのだろう。それでも子どもはこの映画のように森を抜けて大人の世界へと近づいていく。