どこまでも絶望的な風景

曽根中生の「色情姉妹」を観る。ヌーヴェル・ヴァーク風の躍動感を凝縮した冒頭のプロローグ的モノクロシーンからラストの荒涼とした美しい絵画的シーンまで映画的強度が途切れることなく、終始圧倒的だった。舞台は今ではネズミやアヒルたちが支配するメルヘンチックな城下町と化している浦安なのだが、この映画では現在の整然とされた街からは想像できない、社会の底辺に生きる人たちが住む粗末なバラックがひしめきあった街が貧相に映っている。昔は部落だったのだろう。

美人だが薄幸なオーラを匂わせる2人と見事なブスといっていいほど(失礼!)強烈な存在感のある末っ子の3人姉妹が主人公として描かれているのだが、これ以上救われないような見事な絶望っぷりを遺憾無く発揮している。自身のなかに流れる多淫多情な血にまかせるがままに数々の男たちと淫行行為を繰り返してしまう、そのアンモラルなイメージはポルノ映画という範疇を超えて運動豊富なイメージへと昇華してしまうほどだった。極めつけはラストシーンに現れる。美人の2人が海近くの荒涼とした何もない埋立地を彷徨っているときに向こうから大勢の労働者が乗ったダンプトラックが向かってくる。トラックは再び走り始めるときに女の髪を引っ張り上げて荷台に乗せ、労働者たちは荷台と助手席に分かれた2人の女を順々に犯す。荷台と助手席を横断する労働者の性に対する動物的本能的なエネルギーには寒気だつ戦慄を覚えるとともに、おぞましくも絶望的な描写には驚嘆してしまう。アンモラルな情景と曽根の想像力豊かさが熾烈にせめぎあっている。犯しつくされた二人の女は裸のままトラックから地面に放り出される。放り出されたあと、地平線が拡がる開放的な埋立地に立ち尽くすその姿は絶望さを通り過ぎて、物化とされた身体だけが置かれているようにも見える。誤解を恐れずにいえばデカダンス的な描写対象は女性がふさわしいと思わずにはいられなかった。だが、物化されたかのようにみえる裸体の女は両手で胸を覆い隠すしぐさによって、かろうじてこれからも生きていく覚悟をもつ人間として、いや、女性としての強さをも表明している。

ストーリーの内容を知らないまま、映像の流れに身をまかせている時は、ただただ圧倒されっぱなしだった。だが、僕の悪いくせ(?)で、字幕無しの映画を観た後はインターネットであらすじを確認してしまうのだが、この映画で性交する父娘が血の繋がっていない親子関係(三姉妹のうち父の実子は末っ子のみで、からみ無し)であるとわかると、その時に観た衝撃的な印象が何故か半減してしまった。アナーキーな曽根でも、あるいはポルノ映画でさえも、ある一線は越えられず倫理的に踏みとどまっている。これは映画のなかでは近親相姦を徹底的に描写せよとか、本当のアナーキーを目指すべきだと考えているのでは全くなく、ストーリー内容を知らされる前の、意味を剥離された、察しさせてはくれないその表層的イメージは人間の持つ知恵や思考、あるいは理性などといった類を木っ端微塵に吹き飛ばしてしまう、単にあるただのイメージがとても強烈なのだ。映画の表層にはそのような可能性を潜在的に秘めていることを我々はもっと肝に銘じておくべきなのだろうと思う。