藤田敏八の映画

ちょっと前まで、渋谷の名画座田中登の映画を個人的に発見しようと思って8本を立て続けに見たのだが(どれも傑作で素晴らしかった!)、他の日活ロマンポルノ映画も一緒に上映されていて、そのなかで藤田敏八の「エロスの誘惑」と「危険な関係」も見ることができた。実をいうと、日活ロマンポルノの監督を含む70年代の日本映画のなかで、一番好きなのは藤田敏八の映画なのである。今回の2本を含めてまだ6本しか、藤田の映画は見ていないのだが、どれも他の日本映画には感じられない奇妙でつかみどころのない変な感触が僕の脳をエクスタジーというほどではないが、心地よい状態にしてくれる。かといって熱狂的にはまるというほどでもないというのが藤田の映画のツボなのかもしれない(だからなのか、田中の映画にたまたまついてきた藤田の映画をついでに見るというかたちになってしまうわけだ)。
同じく70年代をピークに映画を撮ってきた田中登曽根中生神代辰巳村川透などは、映画への接し方はエロスへの追求、暴力へのあくなき関心、徹底な職人的仕事など、それぞれの違いはありながらも監督自身のもつ世界観を映画という媒体に真っ向からぶつけていくという、映画愛とでもいうようなものがある。しかし、藤田の映画にはそのような映画に対する情熱の匂いが、もし持っていたとしても画面からはなかなか出てこない感じであり、そのかわりに出てくるのは「適当な」「中途半端な」「なんとなく」「いいかげんな」「なるがままに」などと御託を並べてしまうほどネガティブな印象ばかりである。それでも、僕は何故か藤田の映画を見たあとは、一本の映画をまぎれもなく見たというたしかな見応えが生じてくる。やる気が無さそうな藤田の映画が何故面白いのか。結論から言えば、藤田敏八自身が面白い人間だからなのだとしか考えようがない。例えば、「危険な関係」の別荘で男(今は亡き三浦洋一が演じているのだが、すげーかっこいい!)が手紙を読む場面で、別の場所にいる手紙の差出人らしき女性の現在あるいは過去の様子がテンポよく映し出されるのだが、不意と男女の絡みシーンが現れたりする。手紙の内容に沿ってそれらのシーンを編集されていたのだとしても、あまりにも恣意的で即物的な感じがして僕の集中的な意識は脱臼されてしまう。だが、その気ままなテンポ感は持続しているので、脱臼されたままの僕の意識は次の展開へと難なく連れて行かれてしまう。脈略のないイメージの断片性が映画の一直線的な、あるいは物語的な時間の配置にすっぽりと収まっただけの意味のない連続性が面白いのだ。一応物語という上辺に沿って繰り広げられるのだが、その内実はただの表象が流れているだけの虚無感が画面のなかを充溢している。単に表象が戯れているだけなら下手な実験映画と同等になってしまうが、藤田の映画は70年代の空気感を取り入れながら物語という枠をうまく利用したうえで、ただの表象を流している。そこが面白いのだと思う。藤田の映画にある「適当な」「なんとなく」などのネガティブな感触は、言い換えれば「脱力感」なのであるが、ニヒリズムという感じでもない(気負わないというのもちょっと違う)。むしろポジティブに反転しさえする。藤田敏八の脱力感は世界を知っている者のそれであり、世界を知らない者の脱力感とは全く違ったベクトルにあるのではないか。