本展のポスターにも使われている、井上長三郎の《議長席》(1971)は真ん中を水平に明るい黄土色が上部に、暗い焦茶色が下部に塗り分けられている。画面の中心には大きな椅子に座り、前掛かりに書物らしきものを読んでいる人物が無造作な筆づかいで描かれている。即興性の強いストロークは人物や椅子や瓶の輪郭を定めることなく不安定な形象のままにしている。書物の描写もよく見てみると、机の焦げ茶色に塗り残された白い地がかろうじて本の開いた形をしているだけである。リズミカルに素早く描いたかのようなストロークではあるが、溌剌とした伸びやかなイメージよりもそんざいで投げ遣りな印象が立ち現れてくる。《寓話》(1959)のラフに描かれた4人の人物像は同じ画面のなかでそれぞれが身勝手に振る舞うだけの無関心な関係であり、《漂流》(1943)の日本兵の描写には疲弊しきった徒労感と絶望感だけが漂っている(発表時は《魂の生還》として、決戦美術展に出品した井上の行動はまるでドン・キホーテだ)。きっちりさとは遠く離れた井上の作品には半端ない脱力感が流れているが、虚無感を超えた人間の滑稽さ、不条理さがセンスのいいストロークから滲み出ている。センスといっても絵画の技法が洗練されていったところのテクニックや絵画の歴史と戯れる知的行為ではなく、時代の空気感や人間の本質をこともなげに絵画のイメージに翻訳してしまう絵画的ふるまいのことである。どんな社会になろうとも目をそらすことなく世界の現実をあるがままに受け入れる表現者の行為を井上は愚直に実行しているだけである。館蔵品展でもある本展の限られた出品作のなかで井上の作品と比肩できるのはやはり中村宏の鋭利なイメージを持った作品に行き着いてしまう。だが、プロレタリア美術から戦後のルポルタージュ絵画までにわたる、政治的あるいは社会的なイメージが大小にかかわらず絵画の表象に張り付くことをためらうことなく描いた作品群を一望すると、現代絵画に蔓延する政治的あるいは社会的なイメージから限りなく逃走するクールな態度や私的世界をどこまでも展開するピュアさとは別次元のリアリティーがひしひしと伝わってくる。時代は変わっても他者はまぎれもなく存在するのであり、他者との関係が社会や政治を形成する。社会的存在としての、誰もが持っているはずの潜在的意識や人間的感情を一旦閉じ込めることで現代絵画は無害化(洗練化)してきた。一歩踏み違えばイデオロギーにリンクしてしまったり、通俗なイメージに堕してしまうリスクを冒してでも愚直さをもって社会的事象に向き合うことが、この先画家には再び求められてくるのかもしれない。それにはやはり井上や中村のような高度なセンスが絵画的表象には不可欠である。(絵画的かどうか微妙だが、現在の世界に目を向ければ、真っ先にバンクシーがあてはまるだろう)。
http://www.itabashiartmuseum.jp/exhibition/ex170408.html