マティス展:東京都美術館

 大規模な回顧展としては約20年ぶりの「マティス展」の鑑賞を目的に、東京都美術館へ勇気をもって行ったのだが(混雑が苦手なので)、東京都美術館に入館するのも約20年ぶりどころが、それ以上ぶりのような気がする。当時何の展覧会を観たんだっけ?と必死に思い出そうとしたが、観賞する立場ではなく、展示する立場だったことをすっかり忘れていた。東京五美術大学連合卒業・修了制作展、いわゆる五美大展に出品・展示したのであった。現在は六本木にある国立新美術館で開催されているが、僕が学生だった頃は東京都美術館で毎年開催されていた。五美大といっても私立美大のみで、芸大は含まれていない。芸大オンリーの落第者が集まっていた僕の母校の同期生たち(僕も含めて)は都美術館の隣にある芸大の燦然たる存在に、卒業目前になって、大学入学時に持っていた未練と屈折が入り混じった感情が掘り起こされたような、そうでもないような、微妙な空気感が母校のブースの中で漂っていたことは今になってはものすごく懐かしい(実際、僕の母校からは芸大の大学院に行く人が毎年一定数いた)。一方、入り口が外に開放された地下1階という独特な構造と、2階にあるレストランで食べたカレーがとても美味しかったという、視覚空間と味覚・嗅覚の記憶が、会場に着いた瞬間鮮やかに蘇ってきた。

 さて、本題に入るが、マティス展はアンリ・マティスの絵画遍歴を辿るようにして、年代順に展示されている。第1章から第8章までの各章ごとに展示ギャラリーが分かれているのだが、各章のテーマを順に並べてみるとこうだ。〈フォーヴィスムに向かって〉〈ラディカルな探求の時代〉〈並行する探求ー彫刻と絵画〉〈人物と室内〉〈広がりと実験〉〈ニースからヴァンスへ〉〈切り紙絵と最晩年の作品〉〈ヴァンス・ロザリオ礼拝堂〉。第一章の〈フォーヴィスムに向かって〉の「豪奢、静粛、逸楽」(1904年)と「豪奢Ⅰ」(1907年)の2点で、早くもマティスの真骨頂を目の当たりにしてしまった感があるのだが(あくまで当展覧会の範囲内としてです)、その後の作品を全て見回った後であらためて、その感触が確かなものとして湧き起こる。もちろん僕自身の個人的な感触に過ぎないのだが、「豪奢、静粛、逸楽」の筆触分割の技法にある色彩に対する繊細さと、「豪奢Ⅰ」の調和と秩序を破壊する勢いを瞬時に凍結させたような大胆さとが二対になった展示のコントラストだけでフォーヴィスムの頂点に到達していることを十二分に思わせる。セザンヌの「水浴」シリーズとの類似性を匂わせる「豪奢Ⅰ」は裸の女性たちのおおらかな佇まいが荒々しい筆触によって描かれている。迷いのないストロークやタッチが配色の調和や均衡を突き破って色面と輪郭の融合的なイメージを醸し出しているが、唯一無二な絵画的センスから生まれた大胆かつ正統な構図がそのようなイメージを支えている。裸の女性といった絵画表象はセザンヌも含まれるのだが、西洋美術史の系譜を引くモチーフとして脈々と受け継がれている(ギリシャ神話)。西洋圏に所属する画家としての身分が絵画のモチーフや絵画技法と惜しげもなく堂々と結託されているような関係は、第4章〈人物と室内〉と第5章〈広がりと実験〉の革新的な作品群に潜むオリエンタリズムな感覚と最終章〈ヴァンス・ロザリオ礼拝堂〉のキリスト教精神に繋がっている。モチーフや光に対する純粋な感覚を発揮するマティスの仕事には、日本人が到底触れることのできない文化的差異の見えないフィルターが重層している。たとえば、セザンヌは絵画の唯物性への徹底化によって西洋性から逸脱していくような側面があると思うのだが、それにたいして、マティスの絵画には西洋的な絵画表象がどこまでもつきまとっているよう印象が全体的に漂っている。そういう意味でいえば、僕にとってはセザンヌよりマティスのほうに一筋縄ではいかないイメージの複雑さを感じる。第7章の切り紙絵は、紙とハサミを使って第1章の〈フォーヴィスムに向かって〉の作品群で展開されている表現方法に戻ったかのように、色彩と線描という2つの造形要素の統一化が極めてシンプルな形で見事に実現されている。ふいと文化的格差を意識してしまうような異次元的に突き抜けた絵画的センスを内包しているのがマティスの絵画作品であると言ったら、言い過ぎだろうか。