遅まきながら、やっと初めてアーティゾン美術館に入ることができた(前身のブリヂストン美術館の時は2、3回くらい観に行ったと思う)。絵を描く者にとって魅惑的であるはずの展覧会タイトル、《ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開》の文字を一度目にした以上、アーティゾン美術館に行かないわけにはいかなかった。約250点の作品が展示されていて、1点1点をじっくり見るタイプの僕にとってはかなり疲れる鑑賞になってしまった。アーディゾン美術館は日時指定の完全予約制だが、幸い入替制ではなかったので結果的に3時間を超えてしまった。正直、テーマタイトルにある〈展開〉の部分は別の展覧会にしてもいいんじゃないかと思うくらい、(大雑把に分けて)〈覚醒〉あたりの作品と〈展開〉あたりの作品の間には同じ抽象絵画でも大きな隔たりがあったように感じた。セレクション4〈日本における抽象絵画の萌芽と展開〉とセレクション5〈熱い抽象と叙情的抽象〉の間に明確なボーダーラインが存在しているように見受けられる。さらにセレクション8〈戦後日本の抽象絵画の展開〉とセレクション9〈具体美術協会〉の間に別のボーダーラインがあり、ラストのセレクション12〈現代の作家たち〉では別の境地に入った感じである(内容的にも物理的にも空間的にも)。やはり僕の興味と興奮は、セレクション1〈抽象芸術の源泉〉からセレクション4までのゾーンにある数多の作品群に集中していた。本展覧会の入口に、いきなりセザンヌの『サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール』が出現し、抽象絵画はセザンヌから始まるのだという当展覧会の意図がひしひしと伝わってくる。セレクション1ではセザンヌの他に印象派の作品が一緒に展示されているが、抽象絵画は印象派から始まったことよりもセザンヌから始まったことのほうに真実味があると納得せざるをえないような認識がセレクション1の展示を観終えた後に高まってくる。セザンヌの対象物への視点が色面、コンポジション、画面のリズムに凝集されているのを見ると、セザンヌを形容する〈近代美術の父〉の「近代美術」が「抽象絵画」と同義であることが改めてわかるのである。当展覧会の、あるいは今回一挙公開される新収蔵作品の目玉作品としてポスターやチラシに使われている、フランティセック・クプカ『赤い背景のエチュード』(1920-1921)とロベール・ドローネー『街の窓』(1912)は実物を見ると小規模な作品でありながらも、素晴らしい見応えをありありと感じる作品だった。クプカの作品は赤を主調とした画面をダイナミックに展開しつつも、部分部分には図形の形態や色のグラデーションに対する配慮を感じることができる。ダイナミックで単純化した絵画の構図には、外界にある対象を超越した主観的な世界を表している。ドローネーの作品は寒色系の色面が規則的に重なり合って構成されている。『街の窓』のタイトルにあるように、窓の向こうにある街の風景を格子状に解体、再構成していて、規則的なリズムや動き、奥行きが生み出されている。クプカもドローネーも外部から内部へのベクトルで絵画的イメージを生成しているが、イメージや感性の曖昧さに委ねることなく、世界の構造を絵画の構造に重ねるような事象事物の本質への接近を目指したタッチの集積というのを感じられる。約250点という膨大な作品群の中で、個人的にハイライトだったのは、パブロ・ピカソの『立てる裸婦(三人の女)』(1907/08)、『女の胸像(フェルナンド・オリヴィエ)』(1909)、『立てる裸婦』(1909)の3作品。紙に水彩やグワッシュで描いた習作のような作品だが(『女の胸像』はほとんどタブローの作品という感じだったが)、3点とも20号くらいのなかなかのサイズ感がある。同時期に描かれた女性の全身像や胸像は全て線と面の要素に解体されている。セザンヌの多角的な視点を取り入れた形態へのアプローチをさらに発展させた分析的キュビズムの始まりを窺わせる。パリ時代の恋人だったフェルナンド・オリヴィエの上半身体が無慈悲にも分解・組立され、寒色系の限られた色彩で描かれたイメージの再構成は、ジョルジョ・ブラックとともに無味乾燥な抽象化へと向かっていく。対象の具体性を完全に置き去ることなく、対象のもつ形状をもとにして画面を抽象的に構築した作家たちへの信頼感というのは、何もノスタルジックなものではなく、むしろ全てが表現し尽くされ、何もかもが混沌とした現代世界のなかに生きる自分の指針のひとつとしてある。