森村泰昌 なにものかへのレクイエム

暗闇のなか、横長の大きな壁面に余すところなく目一杯引き伸された映像画面は、2画面に分割されていて、どちらも森村泰昌扮するヒトラーチャップリン)が映っている。1つは終始モノクロ画面でヒトラーの顔がはみ出さんばかりにクローズアップされていて、激しい手腕の動きが次々と画面を遮るなか、延々とわめいている。もう1つはカラーとモノクロが交互になっていて、どちらの画面も白昼夢でもみているような緩慢な感じだ。カラー画面では由緒ある建物の内部で地球儀の風船と戯れたり、机の上で横たわったり、窓の外風景を眺めたりする非戦闘的なヒトラーの全身が映っている。モノクロ画面では、日本語字幕が付いていて、何もない背景の前で上半身のヒトラーが魂の抜け殻のように脱力された感じで、独裁者とは何か?について現代人に向かって静かに語っている。
この同一人物による激高さと緩慢さの対照的なイメージを並列した画面構成と森村のハイクオリティな扮装には圧倒されるのだが、作家自身の全身全霊をかけたパフォーマンスはすればするほど逆方向に空洞化への加速を上げていく。その熱情的な画面には徹底的に冷めた印象がメタ次元に漂い、そのギャップが見る者の視線とはぐらかされたままの宙ぶらりんを形づくっているような感じがする。それはそれで森村の目指すところのひとつになっているのかもしれないが、作家と作品は他者に見せる瞬間から離反するのであり、森村の映像作品の現前性だけを目の当たりにする時、作家と作品のとてつもなく大きな乖離性だけが異様に現れてくる。象徴的に描かれる独裁者としてのヒトラーの像ではなく(あるいはチャップリンでもなく)、特異な森村自身の存在だけが突き抜けたままになっている。記憶とか内省とか、あるいは未来へと語っていくものが無化され、誰もいない空っぽのリングのなかで森村自身たった一人で熱のこもったシャドーボクシングをする光景以外のものは何も見当たらない。レーニンの映像作品も然りである。日本有数の日雇い労働者のたまり場であるあいりん地区で実際に労働者を集めて撮影を行った有り様はその映像からはっきりと見て取れるのだが、だから何だ?という気がしないでもない。森村による(おそらくだが)政治的人物に対するニュートラルな表現は、共産主義の消滅後に形成されたありきたりなレーニンのイメージだけをなぞるアイロニカルな表現に転化し、僕は後味の苦さだけが残ってしまう。逆に歴史的、社会的な出来事に対する芸術の無力さをさまざまと見せつけられているような気もする。ヒトラーチャップリン)、レーニン、三島、アインシュタインなど歴史上の人物を同一人物が映像(動画)の画面内でなりきるその様子はそれぞれの事件、人物、思想の背景または出自はそれぞれ全く違うはずなのに、全てが相対化され個人、出来事の差異が見事に消失されている。この森村による背景の希薄さは写真作品に接する時はフラットな支持体の明瞭さや強烈なインパクトによって見えてこないのだが、運動が必然的にともなう映像作品によって一層明らかになっていく。作品内に流れる時間性が表には出されない無意識に横たわる作家の世界観をあらわにしてしまう、そういう意味では運動体としての映像にはとてつもない強力なものが備わっている。美術家や写真家は、本業以外のところである映像あるいは映画には簡単に手を出さないほうが身の為かもしれないのだろうか。