語る者たち

ろう者であるアン•マリー監督は、“私たちの仲間”と呼ぶろう者のHIV感染者とその周辺のろう者のもとへカメラを持って会いに行く。ろう者はカメラの前でエイズと自分自身のかかわりを淡々と語る。ある者は健康だった頃はダンスに熱中していたと語り、別の者は輸血によって感染されるが、未だに父には見舞いに来てくれないと語り、別の画面では複雑な夫婦感情を吐露するろう者のエイズ患者をもつ妻が映る。また、聴者より不当な扱いを受けているろう者のHIV感染者を支える人たちの姿も映される。エイズに対するそれぞれのなかのマイノリティであることの宿命と苦悩の交錯が映っている。語り続けているうちに、語る者はエイズという残酷な現実を受け入れ、いつまで生きられるかわからない暗澹たるわずかな未来しか残されていないなか、それでも生きていこうとする自分自身の存在に気づき始める。驚くほど冷静沈着な姿は、「ろう者」のHIV感染者ではなく、人種、民族、性別、世代、社会などの枠組から遥かに離れた、単に「個」であるただ1人のHIV感染者である。それは、死を間近まで引き寄せた者たちの運命からくる、存在のとてつもない大きさなのだろう。あるいは、カメラの前にむき出しにされる身体性の揺るぎない絶対性とはかなさ。たまたまその者たちは自分の言語である手話でエイズを語るだけなのだ。語る姿は残酷であり、絶望的でもあるが、同時に強烈な存在感から放つ美しさを感じないわけにはいかない。登場人物の1人である、エイズによって盲目になったクオニ•メイソン氏はこう語る。「私はずっと私であり続ける。私は私をやめることはできないから…」 『私達の仲間の話を聞いて』(アン•マリー監督/1994)