「みちのくの人形たち」

深沢七郎本人らしき主人公である老人のところに出稼ぎ労働者が唐突にやってくる。深沢は労働者のことを<このヒト>と表現している。<このヒト>という人称代名詞は現在流通している文にはほとんど出てきそうもない前時代的な気配をもよおし、ヒト科のヒトと同じ文字列からして人類の先祖にさかのぼるような生物学的ニュアンスがある。もし<彼>だったら、フラットに流通する情報空間のなかに埋没してしまいそうだが、<このヒト>は時空を越えたところの個別性、いや生命の背後に潜む私秘性を感じる。

夏に咲くもじずりを見せるために東北の山深い辺鄙なところにある<このヒト>の家に主人公は招待される。同じ村の老人から<旦那さま>と呼ばれる<このヒト>の家では、内密な事情を抱えていることが物語が進むにつれてしだいに明らかになっていく。<このヒト>の先祖は産婆であり、村の間引きを引き受けていた。昔の人は何人も子供を産んだが貧しい生活のために、産声をあげる前に呼吸を止めて嬰児を殺していたのである(くちべらし)。村の人は子供が産まれる時に、<このヒト>の家にある屏風を借りに行く。翌日に<このヒト>は屏風を借りた人の家に出かけて、屏風が逆さになっているかどうかを確認する。逆さ屏風の意味するところは嬰児を殺すことである。この奇習は本当に行われていたかどうかはこの短編作品だけでは何もわからないが、生々しい土俗的世界に圧倒されて、事実かどうか調べる気持ちは少しも起こらなかった。作品の、深沢の言葉や表象によるリアリティで十分であった。確認にきた<このヒト>に屏風を借りた村の人は「母子とも変わりありません」と報告するのだが、世に言う無事に産まれたのではなく、無事に処理したことを言っているのである。社会通念が山奥の村では正反対のものとしてある。現代社会に出現するDVの虐殺やサイコパスの快楽主義のような世界とは違う、生活に密着した生と死の不条理な世界がそこには描かれている。土俗的世界は生と死が表裏一体であり、ふたつの領域を行ったり来たりしている濃密な世界でもある。生活のなかで死が身近なものになっている。主人公の老人は村をたつ時、<旦那さま>に屏風を8回借りたという村の人(子どもはひとり)に軽トラックで駅まで送ってもらう。駅から知人のいるところへ向うためにバスにのる、終盤の場面は幻惑的な世界が見事に描かれている(つげ義春の「ねじ式」を彷彿させる)。間引きを引き受けた罪悪感から自ら切断した両腕のない先祖の産婆の仏像が<このヒト>の2人の子ども、駅通りの土産物売場にいくつも並んでいる両腕のない人形と重なり、主人公がバスのなかで眠りから覚めたときに目撃した現実とも幻想ともつかないような光景に終結する。この一連の流れには言いしれぬ感動をおぼえる。山奥の土地に結びついた精神と生命のつながりが生きることの不可解さを現している。