「奇蹟」

久しぶりにとても濃い読書体験をする。中上健次の『奇蹟』である。中上の独特の文体は読みづらいのだけれど、一気に読み入る時が周期的にやってきて麻薬のような中毒性がある(もちろん麻薬の経験などあるわけないけど)。イクオ、シンゴ、カツ、タイチの「種の頃から双葉の頃から一緒だった中本の一統の四人のひ若い衆」がヒロポンをうつ時、「中本の高貴にして淫蕩に澱んだ」血に不純物が混じり愉楽の発生によって身体に変化が起こるように、この濃密な長編作品を読むにつれて僕のなかにあるありきたりな常識や観念がじわじわと確実に崩壊されていく。上の文にわざわざ描いたような前置きの言葉、つまり枕詞が『奇蹟』には多用されていて、それが読みづらい理由のひとつになっていると思うのだけれど(上記のようなのは短いほうで3〜5行と延々続く枕詞はざらにある)、この規定外の言葉使いは世間からはじき出される宿命を先代から受けもった路地の者の魂のうごめきであり、形容を先きに言わずにいられない悲愴な言葉が来るたびに心を強烈に揺さぶられる。枕詞は形容表現を越えて路地に生きる者の神話を形成する一部分に昇華していく。「夏芙蓉の花に群れる金色の小鳥の群れ」の繰り返される成句は、被差別部落のなかでうろつく荒くれ者たちを見守る老産婆オリュウノオバの視線が言語化された表現のようにみえて、その神々しさと不可解さの表裏一体にわけもわからなく僕の目元の涙腺が緩んでしまいそうになるのをグッとこらえることが何度もあったことか。繰り返されるたびに独特の深みにはまっていく枕詞の文体にはカタカナで綴られる登場人物の名前がリズミカルについてまわる。オリュウノオバ、トモノオジ、シャモのオジ、イバラの留、オオワシとも隼とも称されたヒデ、スガタニのトシ、カドタのマサル、ヒガシのキー、イクオノアニ、ナカモトノタイチ…。カタカナの文字体の単刀直入的なシンプルさが路地の者の偽りのない直な言動に結びつく。紀伊地方の口語体で語りに語りを重ねるなかで、登場人物の名前は枕詞や繰り返される成句とともに口から口へと語り伝える口承性の豊かさとはかなさを形作っている。アル中のトモノオジとオリュウのオバの交互に語る、「闘いの性に生まれついた」タイチを中心とした重層的な物語は時間の前後関係が錯綜している。どこまでが現実でどこから幻想がはじまるのか、タイチとオリュウノオバのどっちが先きになくなったのか、読んでいる途中でわからなくなる。時間の序列を突き抜けて紀伊地方にある路地の濃密な世界だけがその場でうねり続けている。同語反復的な語りによって無限循環の中で閉じる世界は、世俗から離れて自立している。だが、世俗とは常に隣り合わせであり、差別する側と差別される側、日常と非日常のあいだに緊張感が漲っている。その自立によって出現するのは、非日常的で人間の始原的な世界に収束するひとつの神話である。
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309413372/