《盛るとのるソー》

初台のICCで小林椋《盛るとのるソー》を観る。実はICCは初めてであり、入場料が無料であることに軽く驚いたのもあるが、東京オペラシティタワーの4階にあるICCの入口付近を頂上に上りと下りを山のようにして分けてあるエスカレーターを下りて右に曲がると3階の東京オペラシティアートギャラリーがすぐそこにあったことには虚をつかれた感じであった。アートギャラリーには何回も行ってて、その度に同じ建物内にあるICCの存在を薄々意識していたふしがあったのだけれど、こんなに近接していたんだったら躊躇せずに早くからICCへ行けば良かったと多少の後悔感がじわりとくる。つまり長い間、僕の脳内で同じ建物内にあるにもかかわらずアートギャラリーとICCの芸術的回路を流れる導線を勝手な自己都合で切断していたのである。

《盛るとのるソー》はディスプレイがメイン素材になっている感じで、玩具のようなカラフルな造形物と小型ヴィデオカメラ(と土台的物体)がディスプレイに合体するように一体化されたひとつの複合的オブジェクトになっているのもあれば、ヴィデオカメラとカラフルなオブジェクトのペアとディスプレイが別々に展示されているのもある。どちらにしてもヴィデオカメラが単調な反復動作をややぎこちなく繰り返すオブジェクトを撮影し、その映像がディスプレイに映っている。オブジェクトやオブジェクトのある空間の三次元がディスプレイの二次元の映像に変換される。ここまでは見る者の知覚に好奇心を付け加える程度の見る者と作品のオーソドックスな関係で終るはずなのだが、その映像自体はオブジェクトの動きに歩調を合わせるようにして規則的に動いている。つまり二次元の映像を映すディスプレイがスクリーンの記号性を打ち破って三次元の空間のなかで自律的な運動をおこなっている。運動の導入によって三次元と二次元、物質とイメージの平行関係を撹拌している(ゆるやかな感じだけど)。絵画のキャンヴァスの尺寸な側面から木枠や布地を組み合わせた物質性が現れるのと同じようにディスプレイに運動が加わると厚みをもったディスプレイ本体のオブジェクト性が剥き出しにされる。三次元→二次元→三次元といった循環的な関係がひとつの複合的オブジェクトのなかで完結されると、全体と部分の関係によってひとつの世界を形成する装置としてあるのかもしれない。だが、それぞれに付いているヴィデオカメラはユニットとしてのオブジェクトだけを撮影しているのではなく背景の会場空間やそれを見る観客をもディスプレイに映し出す。映像はオブジェクトの内部に取り込まれるどころが外部に開かれている。複合的オブジェクトが複数点在する会場空間のなかでそれぞれが違う動作やそれにともなう音(想像だけど間違いないだろう)をあちこちで発生している。その離散的な光景は知覚のはぐらかしを続けるカオスな世界となっている。
http://www.ntticc.or.jp/ja/exhibitions/2017/emergencies-032-kobayashi-muku/