『パターソン』

ニュージャージー州パターソン。ウィリアム・カーロス・ウィリアムズが医者をやりながら暮らし、アレン・ギンズバーグが生まれ育った町として知られている。その町で同じ名前をもったパターソンはバスを運転するかたわら、事あるごとに秘密ノートに詩を書き留めている。パターソン自身無欲恬淡で謙虚な人物であり、限られた狭い範囲のなかで決まった行動を取る日常生活の一週間を描くこの映画は、ジャームッシュ初期作品の『ナイト・オン・ザ・プラネット』を彷彿させる。時制の単位は異なるが、始まりと終わりのない時間の不可逆性(連続と循環)を意識した映画構造を有している。『ナイト・オン・ザ・プラネット』は世界の各地で起こる(大仰ではない)様々な人間ドラマが時間の進行に従ってグローバルに繋がっているが、パターソンでは同名を持った一個人の単調な生活が家、職場、バーのたった3つの地点を結ぶローカルな領域のなかで自身が書く詩と同じリズムをもって営まれている。アラブ系の妻と一緒に寝るベッドから毎朝起床し(真上からの俯瞰ショット)、同じ朝食を食べたあとにはバスの倉庫までの同じ道順を徒歩する。発車の直前まで詩を書きインド系の上司から小言や愚痴を聞かされる。昼食はグレートフォールズが見える公園のベンチで妻の手作りランチと妻自身の写真(しかも両方とも日替わり)が入ったランチボックスを開ける。乗務の後は真っすぐ帰宅し、傾いたポストを覗いたあと、妻とたわいのない話をしながら夕食を摂る。夜はブルドックを散歩に連れていき、行きつけのバーのカウンターで一杯のビールをひっかける。乗務中のトラブルや男女のもつれ合いに巻き込まれたりはするが、事件性が大きくなることはなくパターソンの日常生活にオプションが更新されるだけである。同じような生活が繰り返されるなかでパターソンはマッチ箱の文字、妻が見た夢の話(夢と現実の双子)、バス乗客の身も蓋もない会話などからインスピレーションを受け、街のなかで様々なタイプの人間と出会うことによって少しずつディテールを重ねながら詩を書き加えていく。パターソンがノートに手書きする詩が画面上に現われ、パターソンがいつも見る街の風景とオーバーラップしながらスクロールするのだが、文学と映像が合流する視覚的悦楽が脳の襞に直接響く(実際は文学と映像の他に音楽が合流しているだろうが、僕にとっては視覚的表象が全てでありそれだけでも十分に響いている)。だが、ジャームッシュは次第に文学と映像をそれぞれ自律したものとして画面上で分離する。文学と映像は交錯したあとにジャームッシュの慈愛と倫理によってパラレルに帰結していく。言語表現と映像表現がせめぎあうその界面(臨界点)がオーバーラップなのであり、パターソンの脳内にある実際に見た光景や幻影がない交ぜした映像に言語化された一字一句が視覚的に被さっていく。同じ画面上で言葉と身体とイメージが一束になって時間の経過とともに流れていく幸福な関係に思わず身震いする。パソコンもスマホも持たないパターソンは詩を書くことを最上位に置きつつローカルな地方都市のなかで様々な人間と交流する。だが、偶然的にひとりずつ出会い、言葉をひとつひとつキャッチボールする様子は交流というより対話である。その場で起こる出来事の不合理さ、親密さは情報として共有することはできない。コンテンツからコミュニケーションの時代になった現在、パターソンやこの映画に出てくる登場人物は淘汰される側の人間なのかもしれない。『パターソン』には今の時代にゆるやかにカウンターするひとつの思想が文学のリズムをもって静かに描かれている。
http://paterson-movie.com/
ジャームッシュとプーマ」http://d.hatena.ne.jp/jj-three-ten/20091123/p1