フランシス・ベーコン

ベーコンの絵画の主要イメージといってもいい肉塊はエイリアンを想起する。人間の身体ってよく見れば不気味な感じがする。例えばお風呂で身体を洗うとき、手足の五本指なんか一本ずつ洗うはめになるので、いちいち面倒くせーなと思いながら意識し始めると自分の身体ながら気持ち悪く感じてしまうことがある。(特に足の小指の形体は奇形的すら感じる)ベーコンの肉塊は人間の身体をデフォルメし、人間の身体の極限的イメージ(表層的にまず現れるブレ、残像動作といった時間的イメージを凌駕する生々しい身体的イメージ)を提示しているが、肉塊の周辺に椅子、檻、ソファ、カーテン(?)などといった日常的、あるいは人間が想像できる範囲内にあるオブジェが配置されているので、人間であることのイメージがかろうじて保持されている。だが、しばらく凝視しているとまわりが霞んでいき、肉塊そのものだけが脅迫的にクローズアップされてくる。人間の肉塊のイメージは次第に薄まり異次元の空間からきたエイリアンのイメージが強力になってくる。それは、ベーコンが絵を描いていた当時の時代感覚第二次世界大戦直後の残骸としての暴力)と現在の僕のいる時代感覚のズレの発生を意味するのかもしれない。僕にとっての得体のしれない肉塊のイメージはあまたの映像を通した未来的人工的エイリアンのイメージが真っ先に出てきてしまう(ハリウッド的イメージ)。ベーコンの作品に影響されたものとして同展示内で上映されている舞踏とコンテンポラリーダンスの身体表現はまさに肉塊が重力に抗う、あるいは重力と戯れる身体表現として見ることができるのだが、ベーコンの肉塊は重力空間を超越した次元に向かわざるをえなくなった現在の人間の身体に孕むエイリアン的イメージとしてとらえることも出来るのではないかと思う。エイリアン的イメージは時代背景から生ずる精神性(苦悩)とは無関係なのかもしれない。グローバリズムとインターネットの世界に拡張していく今までとは違う時空間のなかで、知覚受容の変化を迫られている人間としての現在的身体がベーコンの肉塊的イメージとリンクする可能性を感じつつベーコンの作品を見回ったのだが、やはり「不自由」ということに行きつく。「教皇」シリーズの口を開けた叫びのイメージやベーコンの初期から晩期までの作品に通低する閉鎖的イメージは抑圧的であり、フラットな画面内でうずくまるような肉塊的イメージは重力から永遠に逃れられない肉体の不自由そのものである。社会的にも身体的にも自由であることより不自由であることのほうが生としての真実性があると思う(もちろん自由がいけないという意味ではない)。フランシス・ベーコン東京国立近代美術館 5/26迄