『ある画家の数奇な運命』

 ナチス頽廃芸術展のシーンから始まる、本作はゲルハルト・リヒターの芸術人生をモチーフにしている。美術をかじっている者にとって、一画家の人生のターニングポイントと20世紀美術史の要点が入り組んだ見事な映画的構成に多少たじろいでしまう方も少なくないのではないだろうか。一躍世間にリヒターの名を知らしめるきっかけになったフォト・ペインティングを映画の到着点に設定し、そこに全てが連結していく波乱万丈なストーリーには、あまりにも出来過ぎた展開じゃないかと動揺してしまうくらい、高度なエンターテインメント性が発揮されている。映画化するにあたって、当のリヒターと監督のあいだで、登場人物の人名を架空の名前にし、事実と非事実の境目を明確にしない条件が交わされたことがプレスリリースに記載されている。この映画で表現していることはあくまでもフィクションの出来事なのだと何度も念を押しながら観ていたわけだが、次々と表象される事実的要素の映画的強度を眼の当たりにすると、自分の(映画に対する)リテラシーが虚構と現実のあいだで揺らぎはじめ、ほとんど現実の出来事として受け入れてしまいそうになる。ヨーゼフ・ボイスとリヒターは実際は教授と学生の直接関係を持っていなかったそうだが、ボイス的人物を中心に置いたデュッセルドルフのアートムーブメントの情景描写にはある種のリアリティ(真実性)があり、目を見張らずにはいられなかった。精神に変調をきたした叔母がナチスによって病院へ強引に連れて行かれるとき、少年のクルト(リヒター)はその光景に片手をかざし、手の背景をぼかすシーンがある。そのような身体の行為に結びついた少年時代の記憶が、フォト・ペインティングにダイレクトに繋がっていく帰結的描写はどこまでが事実なのか、それともほとんど創作なのかは知る由もないけれど、その映像表象によって自分の中にあるフォト・ペインティングへの認識に多少変化が生じてしまったこともあながち否定できない。僕自身の絵画観にも影響を与えたフォト・ペインティングの表面に漂う、漠然とした具象イメージの不透明性が一つひとつクリアされてしまわざるをえなくなるような状況にさせてしまう、映画そのものの破壊力(暴力性)に思わず戦慄してしまう。フィクションでありエンターテインメントなのだと割り切れない、得体の知れない何かがこの映画に始終張り付いている。その何かというのは、イメージや憶測が次々と生産され消費されていくなかにおいて、リヒターのフォト・ペインティング作品そのものが実体をともなって世に紛れもなく存在していることの「不穏さ」なのではないだろうか。ラストではフォト・ペインティングを自分のものにしたクルトが個展を行なっている。個展の記者会見で質された、作品とプライベートの関係をやんわり否定するクルトの姿に、僕は胸のつかえが下りるような感覚を覚えたというか、現実の感覚をかろうじて取り戻すことができたのである。だが、現実とリンクするその言葉が発される同じ映画空間では、(リヒターの)トラウマが芸術の創造につながるプロセスへの饒舌さと魅惑さが限りなく広がっている。フィクションやドキュメンタリーにかかわらず、いくら真実を伝えようとしても映画にするということはこういうこと(宿命)であるしかないのだ。

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