映画の「内容」と「形式」について

 前回のブログでも書いたことだが、最近は数十本の映画を短期間に集中して観ている。最近の映像媒体は始めから映画として創作するというよりも、動画として創作するという感覚のほうにウエイトがかかっているので、一概に「映画」と言い切れなくなっているように感じるところがある。そのような動画としての映像に対する感覚の変容が僕自身にも製作側にも、あるいは不特定多数の観客やユーザーにも起こっているように思われるのではないか。映像全般に地殻変動が生じているかもしれないという感触はあくまで個人的な域を出ないと思うけれど、特にドキュメンタリーに類する動画を観ていると、ほとんど「形式」というものが感じられなくなっている。厳密に言えば、映画としてのベクトルに向かっているドキュメンタリーであり、テレビ番組のドキュメンタリーとかネットに簡易的に上げられるドキュメンタリーの体をした動画とかのような表現媒体ではなく、一本の作品として創作し完成させる、いわば映画的プロセスを経て出来上がるようなドキュメンタリーに対してのことを私は言いたいのである。フィクション映画では「形式」に視点を当てる余地はあるが、ドキュメンタリー映画にはそもそも「形式」というものは求められず、無きものに等しいと考える人はいるかもしれない。ただ、僕個人の観た範囲に限るけれど、ドキュメンタリー映画の以前と現在とでは違った印象を抱かざるをえない。現在のドキュメンタリー作品には「内容」ありきの撮り方が目に余るような気がする。内容=主題のレベルという位相があって、映画の中の対象に様々な意味を絡ませる表象に製作側も観客側も慣らされてしまってはいないだろうか。カメラの小型化、軽量化によっていつでもどこでも簡単にリアルな映像が撮られてしまう今時の撮影が、内容=リアリティ=主題を強化し、それに観客が共感するという相互関係が成立しやすくなっているとも言える。内容というのは登場人物が発せられる言葉や登場人物の置かれた事象やコンテクストによって成り立っている。人物(対象)と言葉と事象の意味関係が成立する以前の純粋な視覚的(聴覚的)な構成、表層としての戯れが「形式」なのであり、それがぽっかり欠落しているように感じる。現実のありのままをリアリティに見せたり対峙したりするあまり、主観と客観を取り違えてしまう。社会派的なアプローチをする作品は内容とメッセージを伝えることを第一とする(まあ、全ては度合いの問題に行きつくけれど)。フレデリック・ワイズマンの映画も様々な社会問題をモチーフにしているが、その社会に潜む構造自体に焦点を定める撮り方には「形式」レベルの位相が備わっている。ワイズマンの揺るぎないある視点のもとで、映像が束ねられたあとに独自の世界観が出現し、内容=主題から外れた得体のしれない何かを目撃する醍醐味があるのである。ろう映画の場合であれば、ニコラ・フィリベールの『音のない世界で』には、現実問題としての対象(ろう者)と作り手の主観性(虚構性)の(距離的)バランスをとりながら、最終的には美しい「形式」が倫理的に表象されている。内容=主題は映画を創るうえで骨格としての役割をはたし、それは重要なことになる場合もままある。だが、内容=主題に張り付く意味の世界から自由になれる唯一の世界を構築するような作品が感覚の悦楽や解放、思考の展開につながるはずなのだ。「形式」に接することは作品を創る人の存在や思想を感じることと同義であるといえよう。