戯曲を読む

演劇を観ることなく戯曲を読むということはどんな体験なんだろうか。それも戯曲に出てくる役を演じるつもりもないただの一読者として。チェルフィッチュ主宰、岡田利規の「三月の5日間」(白水社)は、イラク戦争が始まった3月にライブで知り合った男女が渋谷のラブホテルで5日間過ごす話であるが、登場人物はその話に出てくるのではなく彼らから聞いた話を代わりに再現している。ほとんど説明ゼリフになっていて、それが長大なモノローグであったり会話のやりとりであったりする。この戯曲は10つの場面から成っているのだが、ひとつの場面が始まるときに「っていう話をやろうと思うんですけど」「○日目の話からになるんですけど」「今からその一部をやります」というような断りがあるんだけど、それが出るたびに身体じゅうの関節がひとつひとつ脱臼されていく感じがする。登場人物はその役になりきるんじゃなくて、あくまでも聞いた話という設定にとどまってはいるのだが、演劇空間の外部と内部の境目を意識したやり方というよりもその脱力感のするほとんど口語体で書かれている文体に接していると、他者と自分の間に距離を置く(線を引く)ドライな人間関係(疑似関係)の感覚が生ずる。演劇空間は非日常空間でもあるんだけど、日常空間のなかの一部でもあるってことをさりげなく示唆してもいる。だけど、やはりというか「男優1」「女優2」と書かれた登場人物は聞いた話を語っているうちに聞いた話を語るという立場が怪しくなり、話のなかの人物にすり替わってしまったり、ある人物から別の人物へと移行したりする。同一人物のなかで三人称と一人称の区別がなくなり2つのベクトルを横断していくのだけれど(ロールシフトとはまた違う感じ)、べつに感情移入が発生するわけでもなく、話の内容というよりも語ること、会話そのもの自体が無防備に突き出されている。無目的なまま、だらだらと話すとりとめのない話が反復されたり、会話が少しずつズレたりすることによって全体空間が散漫していく。今どきの若者ふうな語り(といってもすでに10年以上前になってしまっている)というか会話のなかにイラク戦争の反対デモというビビッドな社会事象が入ってくるのだけれど、思想を語るのでも態度を表明するのでもなくたまたまデモに出くわした時の様子を他人事のように語る(デモがうるさいと怒る場面はあるけど、デモにたいする拒否感覚は出てこない)。それにラブホテルで濃密な関係がおこなわれるのだけれど、その濃密さというのはもちろん肉体関係のほうであって精神的なものではない(備え付けの2つからマツキヨの3ダースへ)。遠い彼方では戦争があって、此方では快楽にいそしむ、その東京(渋谷)にいるリアリティな距離感のあいだで口語体が整理されることなく、時系列をジグザクにずらしながらも5日間の物語が流動的に進行していく。さっき流動的と書いたが、物語の時間というよりもモノローグや会話の形式に表れる表層的な部分から来ているように思う。意識から無意識への滑らかな移行があり、「なんか旅行中みたいだよね、海外旅行、」というようなそのときの感覚だけが物語や人間関係から逸脱し、感覚の手触りだけが残る。ここまで「三月の5日間」を説明なり感想を書いたけど、読み返してみると演劇を実際に観て感想を書いていることとあまり変わりないような気がする。改めて戯曲ということだけに意識してみると、モノローグや会話の合間にそれを聞いている他の役者によるレスポンスや身体的動作(本人役も含む)、または指示対象がカッコ付きで挿入されている。それらは劇場で観ないとわからないものであり、戯曲の段階では想像するよりほかない。劇場では同じ空間のなかで知覚を通して役者と観客がシンクロしていくプリミティブな関係が発生するのであり、戯曲では文字の上を滑らせながら想像するという感覚にとどまっているのだと思うけれど、僕は演劇を観るようなつもりでこの戯曲を読んでいる。それは一般的に演劇空間のなかにいることと個人的に文字としてのセリフしかモノローグや会話に近づくことができないことの2つの視覚体験が時空を超えて重なっていることでもある。三人称と一人称の立場が役者のなかで錯綜するように、ドメスティックな空間(部屋)でパブリックな空間(劇場)の外部と内部の境界線を横断していく、それが戯曲を読むということなのかはわからないけれど、文学のフィールドのうえで知覚全体へと錯覚していくということだけは言えるのかもしれない。モノローグや会話のなかに差し挟まれているカッコ内の言動を表わす文字と僕の身体感覚の乖離を埋めるためにも、いつかはチェルフィッチュの演劇を生で観てみたいと思う。
http://www.hakusuisha.co.jp/book/b204371.html