日常化する緊急事態宣言の現下における個人的な雑感あれこれ

 オリパラ期間中に新型コロナウィルスの感染者数が急拡大した現下、休日や余暇時に映画館や美術館に全然寄れなくなってしまった。最近まではマスクをして観賞するだけなら大丈夫なんじゃないかという自己判断のうえ、映画や美術などを観に行くことは日常生活に欠かせない、自分にとってなかば義務的なことであったので、多少躊躇しながらもコンスタントに映画館や美術館などへ出かけていったが、最近はもう全然観に行く気力が出てこない。ワクチンは2回接種済んだけれど、会社では不要不急の圧が日ごとに強くなっているし(強要されることはないけど)、デルタ株は空気感染とのニュースが出ているし、そして、何よりも国と都の無為無策によって多くの人が自宅療養を余儀なくされ、在宅死が続出する現在、自分は芸術への渇望より自己防衛が勝ってしまい、外部へのアクションがほぼ皆無の状態に成り下がっている。そのいっぼう、毎日の通勤で満員電車に揺られている理不尽さにはたまったものではない。本当は早稲田松竹の毎回興味を引く上映企画やイメージフォーラムのケリー・ライカート特集、あるいは諸々の美術展を見に行きたくて仕方がないのだが、コロナ禍の最中で身を削ってまで営業し続ける映画館や美術館のことを考えると自分の不甲斐なさにやりきれない気持ちだ。

 外に出ることが減ってきたが、家でただ引きこもっているわけではない。外出が減る代わりに家でやることが増えたのも事実であり、週2回のオンラインによる手話講座もそのひとつである。手話講座の指導は以前に対面で行ったことがあるが、対面とオンラインの違いに四苦八苦しながらも、何とか無事に進められている。指導方法は手話単語の導入とインタラクションを螺旋状的に行い、受講生の理解力の向上を促すやり方であるが、オンラインではインプットする際の受講生の身体から生ずる反応やふるまいが小さな画面上(3×3のギャラリー画面)ではなかなか伝わってこない。手話単語を導入する時も、二次元の画面では正面から見る手話の形だけではなく、側面から見る形もいちいち見せなければならない。対面の時のように手話単語をそのままの表出でスムーズに導入し身に付けさせるというよりは、初っ端から手自体に意識が行き、手の形からはめ込ませるようなカチカチした感じになってしまい、導入する時間も対面の倍まではいかないけれど結果的にタイムロスしてしまう。こういう状況で一番気掛かりなのは手話文法を形づくる非手指動作(NM)と手話言語としての音韻的要素が受講生に伝わっているかどうかである。現在教えているのは初級コースなので、NM自体や音韻自体を直接教えることはしないが、主にインタラクションで行う講師の手話表出に付随するNMや音韻を繰り返し見せることで、それらによって手話が成立していることを理解させる意図が含まれている。その懸念への対策として対面の時より復習に時間を割いている。復習は前回のインタラクションを整理して質疑応答を行なっているのだが、やはりそのような問題を抽出できているのでそれなりの効果は出てきている。表出力より理解力が先であることは言うまでもないが、様々な制限が生じるオンラインの場合は、どちらが先というよりは多少理解力を先行しつつ並行的に指導する必要があるのかもしれない。いずれにしても受講生は着実に向上しているし、オンラインならではのメリットもあるので、試行錯誤しながら一歩一歩積み重ねていきたいと思っている次第である。