アクチュアルな2人の巨匠

ゴールデンウィークでは、クリント・イーストウッドの「グラン・トリノ」とジョナサン・デミの「レイチェルの結婚」の2本を観る。ミニマルな場所、家族の崩壊そして再生、多民族社会を抱えるアメリカの現実、孤独な人生。それらは2本の映画の画面内に描写される共通する表象である。世界を股にかけるような描写をしなくても、現在の世界のすべてが凝縮されている。どちらも沢山の人々が主人公のまわりを右往左往するが、主人公は孤独なままだ。主人公だけではなく、誰でもが、沢山の人々と関わって生きているなかで、それぞれが孤独を感じている。そんなことは、百も承知だ。それでも、沢山の人々と関係をもつというのは、かけがえのないことであることを2本の映画は教えてくれる。「グラン・トリノ」では、隣に住むモン族との交流、「レイチェルの結婚」では、大饗宴を繰り広げる結婚式の様相が観客の心を捉えて離さない。「グラン・トリノ」での銃を持ったぶつかり合い、「レイチェルの結婚」でのバラバラになった家族同士のわめき合い、それぞれの、一歩間違えれば生命の危機が及ぼされるような、最後には疲労困憊でズタズタになってしまう人間同士の関わり合いというのは、誰でもが経験する避けたくても避けられない出来事であり、人間を一歩大きくしてくれる出来事でもあるのだ。モン族のチンピラが刑期を終え街に帰ってくるかもしれない恐怖感、結婚式が終わろうとする時に生みの母親が姉妹の前で決定的な深い溝を見せてしまう失望感を2本の映画は残していくのだが、それでも我々は困難な未来に向かって、前向きに生きていくしかないのだと。長続きはしないが、瞬間瞬間の幸福な出来事を次々へと獲得し、喪失し、また獲得していかなければならないのだから。