「ヴィデオを待ちながら」

久々にとても面白い美術展を観た。ちょっと高かったけど美術展のカタログを買ったのもとても久しぶりだ。本棚を見てみたが、その前はオペラシティギャラリーでの「リュック・タイマンス展」のようだから、9年振りに買ったことになる(もう少しお金があれば、次々と難なくカタログを買っていたかもしれないが…、去年の「モーリス・ルイス展」の時は最後まで迷った挙句、断念した)。それぐらい僕にとって、東近美の「ヴィデオを待ちながら」は刺激と驚きのオンパレードだった。出品作品の大半は60〜70年代のものだったが、他の比較的新しい作品より、すば抜けてイカしていた。ヴィト・アコンチ、ジョン・バルデッサリ、ブルース・ナウマン、デニス・オッペンハイム、リチャード・セラ・・・もう凄すぎ。
方法論というかコンセプトを前面に出したヴィデオアートではあるが、60〜70年代特有の思想背景のなかから出現する身体そのものあるいはモノそれ自体の特異性が、異常なくらい現在に生きる私を凄まじく圧倒してくる。単調な繰り返しの世界でもぐいぐい惹きこまれてしまう。作家本人の身体は狂気的なオーラを発散していたし、リチャード・セラの旋回橋を撮ったゆっくり回転する幾何学的な画面も心情をもった何か得たいの知れないモノの運動を映しているかのようだ。本仕事ではないヴィデオアートではあるかもしれないが、カメラに撮られたそれぞれの身体やモノには実質存在の強度が遺憾なく表現されているのだと思う。やはり、確固とした思想をもった作家はコンセプチュアルな行為を経て特異的な身体やモノに辿り着くのだ。それは、単なるアイデアの提示ではなく、作家の真摯な生き方から来るのだろう。余談だが、田中功起の作品も展示してもよかったのではないかと思う(起点を喪失し、垂れ流しになってしまうことの多い現代美術系のヴィデオ作品のなかで、田中功起はいかに観客にどう見せるかということを真剣に考えている唯一の作家だと思う)。