「スプリング・ブレイカーズ」

つかの間のパラダイスは、現実世界から脱出した暁の行き着いた場所だったのだろうか。それとも乱痴気騒ぎの一時的なあいだだけだったのだろうか。4人の女子大生の逃避行は時間の流れに沿って展開するのだが、前後のシーンが折り畳むように交錯しているので無時間的な感覚が漂う。幻影と現実のどっちでもないイメージがポップな感覚をともなって退廃的に下降していく。映画世界は虚構世界でもあるようにスクリーンに映る光景はすべて幻影でしかないが、4人の女子大生も幻影のなかにまどろんだままだ。幻影と現実を分け隔てるものはなく、幻影は現実であり現実は幻影であり、すべてが一続きしている。

4人の女子大生は南の楽園でエイリアンと名乗る謎の男性に出会い、今までに経験したことのない情動を共有する。現実世界には現れることのない魔法に取り憑かれていく。だが、その魔法は恐怖の感情が現れる状況を直接的にはつくらない。エイリアンはパラダイスのなかにいると信じる4人を強制することはなく、自由のままにさせている。彼女たちの不安、期待、好奇心を、愛情をもって包含しつつ未知の世界へと道連れにする。漠然とした気分の底にある潜在的なものをていねいに引き出された彼女たちは、彼女たちにとっての本当の世界に向って精神がしだいに開け放たれていくようになる。途中で4人のなかで一番堅実なフェイスが脱落するものの、すべてが夢のような外的作用によって能動的に動き出していく。エイリアンのとりこになった彼女たちは精神と身体の不可分さがますます強固になり、ギャング同士の縄張り抗争に巻き込まれていく。スプリング・ブレイクがいとも簡単に死の世界に様変わりしてしまう。果たして彼女たちは能動的に人殺しを求めたのだろうか。それともエイリアン、いやアメリカによって導かれてきたのだろうか。皆殺しを成し遂げたブリットとキャンディがスポーツカーに乗って現実世界に戻るときの虚ろな表情を一瞥しただけでは何もわからない。夢幻のなかにあってもごく自然に人殺しが行われる。銃社会アメリカの映画ではあるが、映画のなかで描かれる殺人の印象は現実世界の殺人にたいする印象よりもはるかに身近なもの、非現実的なものとして表象されてしまう。女と銃によって映画が成立するのではなく(グリフィスあるいはゴダール)、殺人にたいする無感覚によって成立してしまうのが現在の映画なのだと思う(タランティーノ)。情動におもむくままに行動する彼女たちは現実のなかでも、幻影のなかでもなく、想像力を喪失したイメージだけの世界にいる。エイリアン曰く、「ここは魔法の地だ/ここは別世界/自分を変えられる/ビキニとケツこそ人生だ」。