『 ブランクーシ 本質を象る 』:アーティゾン美術館

 アーティゾン美術館で開催中の『ブランクーシ 本質を象る』展を観る。ブランクーシルーマニアからパリに出て、下彫り工としてロダンの工房で働くようになるが、1ヶ月ほどで辞去している。当時のパリでは粘土による塑造を駆使し、分業制を確立させたロダンが君臨していたが、一方でそのようなロダンの彫刻制作の方法に疑問視する気運が若手の彫刻家の心情に広まってもいた。その頃のブランクーシロダンと同様に塑造の技法で作品を造っていたが、本展で展示されている初期の作品を見る限り、粘土を次々と足しながら人物の内面を浮かび上がらせるというような表現に辿るどころが、滑らかな表面と全体のフォルムに観る者の意識を誘導し、具体的な表情をなかなか見せてくれないような様相を呈している。ブランクーシはすでにロダンとは違う彫刻の世界に向かっていたのであり、足し算の思考から引き算の思考へと直彫りの技法を足がかりに、素材とフォルムそのものへの追求を独自で行い始めたとも言えるだろう。《眠る幼児》(1907年)は塑造による写実的な表現を施された幼児の頭部だが、形態の単純化がうかがえるような抽象性を有している。タイトル通りに幼児の頭部は眠りの状態に置かれていて、重力からの解放のイメージを醸し出している。伝統的な台座の存在を排除した、そのような水平的な形式は《眠れるミューズ》(1910ー11年頃)や《うぶごえ》(1917年)等のような卵形のフォルムへと引き継がれていく(本展ではいいうまでもなく「仮」としての台座に置かれている)。そのフォルムや水平的な表現はブランクーシ自身が実際に関心を寄せていたアフリカの仮面やインドと東アジアの仏頭のイメージと重なる。20世紀初頭の西洋美術に大きな影響を及ぼしたアフリカとオセアニアの原始美術やオリエンタリズムブランクーシの彫刻表現にも及んでいるが、ピカソマティスなどの作品表現に意識と無意識とにかかわらず張り付くオリエンタリズムの表象ほどにはあまり感じられないのは、ブランクーシ西欧文化の非中心的な国であるルーマニア出身(黒海を挟んでトルコの隣りにある)だったこととの関連性は定かではないとしても、文化的な外形や様相のはるかにある根源的なフォルム、あらゆる存在の原型への到達を目指していたブランクーシの思想にその根拠を見出すことは出来るかもしれない(パリに制作拠点を置き、芸術家同士の盛んな交流がありながらも、文化的表象との戯れには一定の距離をおくことが出来ていたのかもしれない)。1920年代の作品は再び台座を使用し、垂直的な造形が多く見られるようになる。男根の形を彷彿とさせる《王妃 X》(1915ー16年)は1910年代だが、《若い男のトルソ》(1924年)、《ポガニー嬢Ⅱ》(1925年)、《洗練された若い女性(ナンシー・キュナールの肖像)》(1928ー32年)等といった人体をモチーフにした作品とともに、《雄鶏》(1924年)や《空間の鳥》(1926年)のような天空への志向を強く示す作品も制作されている。台座はあるものの、空間を無限に突き抜けていくような上昇的フォルムは、やはり重力のあるイメージを希薄化あるいは無効化している。1910年代の頭部像や卵形のフォルムに見られる水平的形態も1920年代の垂直的形態も重力からの解放を一貫して目指されていたことがわかるのである。本展には出品されていないが、ブランクーシの写真や映像に頻繁に現れる《無限柱》(1918ー28年頃)は垂直方向、無重力への追求が最上に表現された、「無限」の象徴的作品(反復的作品)と言えるだろう。ブランクーシは以下のような寸言を残している。

「単純さとは、解決の与えられた複雑さのことである」