中平卓馬とホームレス

晴天の下にある草木、看板、オブジェ、動物、風景などの約50〜80点のカラー写真が縦の長方形をとって、ランダムな感じで横長の二列に構成されているなか、唐突にホームレスらしき人物を撮ったプリントが出現する。唐突な感じであるのは、識別が出来ないほどの汚れた顔面や服装、うずくまるようにして横たわる姿、顔をフードで目一杯被る人物などを画面いっぱいに写しているので、一見、人物というよりも得体のしれない抽象的な物体にみえてしまうからである。よく見ると、ホームレスらしき人物であることがわかるのだが、二列に構成されたプリント群のなかにホームレスの写真が何点かが、やや規則的に配置されている。写真のモチーフは、太陽光の具合、色調、空気感などが肉眼で見るのと同じようにそのまま現実の光景として写しとられている為か、実際に外を歩いている時に不意とホームレスに出くわすようなリアル感とちょっとしたハプニングな感じがする。構図、主観的表象、意味関係を度外視した撮影のなかのモチーフは、どれもが即物的であり、あまりにもあっけらかんとしている。しかし、規則的に出現するホームレスへの拘泥は何なのだろうか?動物のモチーフは、ヤギ、猫、鳥などが選択されているが、人間のモチーフは一般的な人物は写されていなく、ホームレスのみである。あまりにも有名な「植物図鑑」という言葉を世に投げかけた中平卓馬だが、写真家も人間である限り、自我というものを完全に排除することはできない。記憶と言葉の大部分を失ったものの(情報として聞いただけで、どの程度なのか知らないので簡単に使いたくないが…)、今日まで生き残り機能し続ける身体感覚としての「自分とは誰か?」という本能的な問いがモチーフとしてのホームレスを選択したのではないだろうか?記憶や言葉から離れていったたんなる視覚的行為で現在の自分に類似した人物を撮影した結果、中平の眼差しはホームレスに向かっていったように思う。唐突な感じを受けた僕にとってホームレスはアブジェクトな存在になってしまったが、中平にとってのホームレスは他者ではなく、自分自身のなかにいる存在、いわば自画像なのかもしれない。伝説的人物となった中平卓馬というフィルターが掛かっている部分はあるかもしれないが、悟りの境地に辿り着いたようなスケール大の作品という印象がした。