「ノーカントリー」

上映終了間近になって、「ノーカントリー」を観る。6、7本しかみてないが、私としてはコーエンブラザーズの作品の中では「ファーゴ」を凌ぐ最高傑作になったのではないかと思う。現代の死に神こと、殺し屋シガーの存在ばかりが、ひときわ異彩を放つ。その強烈なキャラクター性の創造はコーエンブラザーズの得意中の得意技なのであるが、これまでにあったキャラクター性からくる、多かれ少なかれ付きまとっていた胡散臭さがあまり感じられないのであった。それは、冷徹残酷きわまりないシガーと最後まで直接会っていないながらも、シガーの影を追い続ける老保安官ベルの言動からくる、人生をまるごと投げ入れたメタフィジカルな視線がこの映画を覆っていたからだ。それは、ベル本人だけではなく、アメリカという国が背負っている何かでもある。理解不可能な暴力を生み出し、世界中に蔓延させ、不条理かつ不可解な暴力と付き合ってきたアメリカに生きる人達のやるせない無力感。ベルと保安官を引退し落ちぶれた生活を送っている先輩の諦念した会話場面がすべてを語っている。
アメリカ映画はその無力感をずっと描写してきた歴史がある。西部劇からフイルムノワール、そして、クリント・イーストウッド。最近では、デヴィッド・フィンチャーの「ゾディアック」が思い出される。それらには、少しの希望もなく、唯々絶望のみが拡がる。だが、絶望のなかで、我々はどう生きざるをえないのか、あるいは、どう生きるべきなのか、が監督の視線によってスクリーンに映じるだけだ。解決という言葉があてはまらないそれらの映画に、我々は全身で受け止めるしか術がないというのが、今生きている現在なのであり、映画というフィクションさえも突き抜けている。この「ノーカントリー」では、殺し屋シガーが辿っていく風景が、あまりにも美しく描かれているという信じがたい感覚と不条理さがいやというほど、脳に焼き付けられてしまっているのだ。そう、9.11の崩壊するビルの光景に美しさを感じてしまった感覚と同じである・・・。