ターナー賞あるいはホルマリン漬けの牛

森美術館にて、「英国美術の現在史:ターナー賞の歩み展」を観る。現在、世界の美術界において最も活気があると言われているイギリスの現代美術を一応だけど総括して観られるわけだから、早速観に行ってみた。でも実際は半分以上が野次馬根性で、ダミアン・ハーストの実物の牛を真二つに切断されホルマリン漬けになった作品が目当てと言ってもいい。おそらく、日本で展示されるのは、初めてのことではないかと思うのだが。

実際にその作品を目の当たりにしたわけだが、発表当時、世界的にセンセーショナルに賛否両論を賑わした作品のわりには、静謐という言葉がしっくりくる印象が大きい。もちろんリアルタイムの鑑賞ではない時間の経過というのもあるだろうけど、実物の牛を真二つに切断するという残酷な人為性が薄れてしまうほど、死のイメージが穏やかになっている。ホルマリンの中で浮遊する有様は死後の形態としては理想といえるのかもしれないと思わせるような悪趣味という言葉では括れない美しさを感じてしまう。ダミアン・ハースト本人も言っているように、形式だけを見ればスキャンダル的だが、作品の本質は別のところにあるというのも多少うなずける。ただ、人為性を忘却させてしまう強度をもった美しさというのは、イメージによって惑わされてしまう政治的な要素をもった恐怖なのか、実物そのものだけが放つ人間の内面にある感情的な部分を刺激するエロティズムから生ずる恐怖なのか、判断しかねない。おそらく暴れる牛を扱い、血しぶきを放ちながら切断し、大量のホルマリンに中に沈めるという体力的にも時間的にも莫大なエネルギーを費やしただろうその作品には、行為性がまったく感じられなく、何ともいえない美しさだけが顕現する。あまりにもあっけらかんとしている、ある意味恐ろしい作品だ。

ターナー賞受賞作品群を見渡すと、良くも悪くも現在の世界に流通している現代美術の縮図が浮かび上がる。現代美術と呼ばれるようになってから現在にいたるまでの期間は、100年はまだまだ超えていないと思うのだが、その短い期間のなかで美術制度に対する批判、社会の動向に対する反応など様々なアプローチが生れ、素材、表現の形態はますます自由になっているように見えるのだが、アクチュアルな面はあるものの、同じことの繰り返しだけという単純明快な骨格が露呈されている。自由であって不自由であるのが美術に限らず芸術全体の本質だと思う。それに自覚的であるか、無自覚的であるか、があるだけだ。ただ、サイクル期間がどんどん短くなっている。芸術作品がもつ永遠性あるいは、ベンヤミンのいうアウラは現在において完全に無意味なものになってしまったのだろうか?と考えてみたりするが、トニー・クラッグのゴミで構成された「ウェディング」の前に立つと、頭の中が白紙に戻され、このままずっと観ていたいという気持ちと所有欲が漸次的に沸き起こってくるのだった。