「われわれは<リアル>である」

住みたい街ナンバーワンの吉祥寺にある武蔵野市立吉祥寺美術館で「われわれは<リアル>である」、[1920s - 1950s プロレタリア美術運動からルポルタージュ絵画運動まで:記録された民衆と労働]という長い副題がついた展覧会を観る(初めて行ったのだが、入場料が100円というのには驚いた)。1)プロレタリア美術運動とその時代、2)戦争と民衆 戦争画と勤労・増産絵画、3)戦後、ルポルタージュへ、といった3つのテーマで展示構成されているのだが、僕の関心はプロレタリア美術運動にあった。戦争画や内地で戦争を支える女性や少年らを描いた発揚的絵画は国家主導から発生したものであり、絵を描く者の主体的意味は低い(とはいえ視線をずらしたところに浮上する不気味なイメージや虚構的表層は観る価値はある)。ルポルタージュ絵画は現場から生じるリアルさを直に扱うことから始まるが、戦後の新しい美術運動と重なり、現代絵画へと繋がっていく抽象的イメージを展開するようになる。戦争画や増産絵画は国家の保護を受けて描かれたものであり、ルポルタージュ絵画はスタート時点では政治的結びつきがあったものの、次第にリアル的表現のなかであいまいさを獲得するようになり、現在にいたっては現代美術界のなかで再評価をうけるようになる。今となっては負の遺産扱いになっている戦争画だが、国家の保護をうけたという一点のみに限定すれば、ベネチアビエンナーレの日本館で展示される現代美術の作品と同じ立場の作品であったと極端に言うこともできる。だが、プロレタリア美術の作品は当時においても現在においても保護や再評価とは無関係に近い状態におかれている(例外的といえば、美術ではないけど小林多喜二の小説「蟹工船」ブームが記憶に新しい)。当時の社会主義思想の普及や都市労働者の増大による民衆的ムーブメントから熱気とともに出現したという事象として歴史的に扱われるだけだ。それはあまりの愚直なメッセージ性のなかで括られてしまい、特に日本人にとっては受け入れがたいもののひとつであり、現在においてもその扱いには困惑をともなざるを得ない。それでも僕がプロレタリア美術運動に関心をもつのは、特定の政治的思想と密に関わるその前後にある誰もが持っているはずの純然たる人間的感情が作品のどこかに表現されていると感じているからだ。組織としての美術のなかにある主体的存在、あるいは絵画的存在。その直観を確認するために吉祥寺に向ったのだが、残念ながら絵画作品が少なかったので十分な確認は出来なかった。しかし、ポスター、雑誌の表紙、新聞の挿絵にはシンプルかつエネルギッシュな格好良さがあって刺激的だった。いつかプロレタリア美術の絵画作品をまとまった形で観る機会があったら、政治的表現や形式のなかで組織と主体が合一された絵画的表現の根元を探ってみたいと思う。政治的思想を差し引いた個体としての表現を探るのではなく、最初から政治的思想と密に関わった作品としてそのなかにある絵画的な何かを探ってみること。プロレタリア美術以外のなにものでもないそのストレートな表現は、現在の僕にとって無視することのできないものになっている。(2014年2月に神奈川県立近代美術館 葉山で柳瀬正夢の企画展示があったことを最近知った。逃がした魚が大きすぎて呆然している…)