トッド・へインズ監督最新作「アイム・ノット・ゼア」を観る。この映画を見る前に6人のキャストがボブ・ディランを演じるという予備知識を植え込んでしまったせいか、本作が始まるなり、6人演じる容姿が黒人から女性が演じる似姿まで無差別に出現し、しかも6人の名前がそれぞれ異なっていたため、頭の固い僕は冒頭からこんがらかったまま、この映画に流れるリズムに乗り遅れてしまった。頭の中では6人ともボブ・ディランなのだと懸命に理解しようとしたのだが、この映画の混沌さと突飛な飛躍性があまりにも大きくて、苦労してしまった。出足は躓いたものの、途中からロジックを捨てて映像の流れに身を任せてみたら、まあなんとか気分がのって来た。しかし、正直よくわからなかった。この映画を観る限り、実際のボブ・ディランの生き方そのものが摩訶不思議なもので謎めいたものだから、この映画も不透明で正体不明な印象がはりついたのではないかとも思えるのだ。
そもそも、ろう者である僕はボブ・ディランの音楽は聴きたくても聴けない(響きや振動は体感できるが)。だから、ボブ・ディランにつきものである音楽を抜きにして、この映画の画面上をなぞり続けるしか他に方法はない。6人のキャストが演じる6つのボブ・ディランの物語が断片的に交錯しながら進行していくのだが、シーンとシーンの間にある断層をボブ・ディランの音楽がなめらかに繋ぎとめていたのではないか?とも考えてみたりする。トット・へインズのずば抜けたセンスがみられるあまたの映像群を眼前に並べられても、ボブ・ディランに関する映画である以上、映像より音楽が優位に立つ映画になってしまわざるを得ないような気がする。音楽をテーマとした映画をつくるとき、いかにして音楽イメージの表層だけを滑るミュージックビデオから遠く離れようとするか、が大きな闘いになるのではないかと思う。ボブ・ディラン自身は「音楽が世の中を変えられるなんて思ってないさ」と言っているが、音楽が世界中の人間たちをどこまでも突き動かし続ける偉大な力を持っていることはこの映画を観た以上、ろう者である僕も認めざるを得なくなるのである。音楽は人間のエモーションを理屈なしで刺激してやまないのだろう。そしてその頂点にたつのがボブ・ディランなのだろう。