「H story」

アラン・レネの「ヒロシマ・モナムール二十四時間の情事)」のリメイクであるこの映画は、即興演技のスタイルを採っている。ベアトリス・ダルの演技を見ていると、どこからどこまでフィクションなのかあるいはノンフィクションなのか、よくわからなくなってくる。本撮影とメイキング(監督本人もちょくちょく出てくる)を一台のカメラにおさめているのだから、なおさら頭の中が混乱してしまう。ベアトリス・ダルのスランプをさらけ出すようにその場に起こるリアルな緊迫感が、我々観客にも伝播し、心の中にズキズキと痛みが走るのだが、それも、もしかして生身から出た身振りではなく、全ては演技のうちに入っていたという思惑が頭の中をよぎると、裏切られたような気もするのだ。例えば、ジョン・カサヴェテイスの映画のように即興演技は役者の生身を尊重するがゆえに人間それ自体の存在感の生々しさが出現するはずなのだが、この映画は役者の演技レベルだけではなく、本撮影とメイキングを一体化するように映画全体というメタレベルからも虚構と現実を融合しようとしているために、どこか、観客を突き放しているようなクールな印象がする。映画の中に出てくる現代彫刻作品のように。ベアトリス・ダルと馬野裕朗に「ヒロシマ・モナムール」のエマニュエル・リヴァ岡田英次が演じたことを再度テキスト通りにやらせようとする、それはどんな意味があるのだろうか?諏訪監督もこの問いには「避けて通れなかったんだ」とだけ答える。この映画には、小奇麗な近代都市になった現在の広島を原爆記録フイルムとともに映しているのだが、全てはあいまいなまま時間と空間があるだけだ。全体的にクールな印象がするなか、ベアトリス・ダルと町田康の全く会話ができないながらも、延々と一緒にぶらぶらする様子だけは、生身と生身がぶつかり合う裸のコミュニケーションというものを感じられ、この映画をぎりぎりのところで救っている。