ろう者が映画を観るということ

先日の映画館内の出来事なのだが、上映中突然音が消え、約5分間無音のまま画面が延々と流されていた。館内がざわつきはじめ観客の何人かが席を立ち、いつまでたっても気づかないスタッフに知らせに行ったらしく、しばらくした後、元の音状態に戻った。(そういえば、上映開始後、非常口ランプもしばらくの間点灯したままで、目障りの眩しさだった。その映画館、しっかりしてくれよ…、お金払って見てんだから。)

ろう者である僕もこの異常状態にはすぐ気づいた。何故なら、僕は映画を見るとき、補聴器を付ける習慣を持っているからだ。普段はほとんどと言っていいほど補聴器にはお世話にならないのだが、映画を見る時だけは補聴器を付ける。おそらく人生で初めて映画館で映画を見た時からの習慣だろう。しかし、家でTVやDVDを見るときは、付けないことのほうが多い。普段の日常生活行為の時は付けないのに、映画館で映画を見るときだけ補聴器を付けるのは何故か?大方、無意識からではあるが、まず映画館の暗闇のなかで、映画が始まるときの瞬間に、音を含めた体感を楽しみたいという身体の欲求があり、外部から遮断された映画内の世界と対峙する時だけは、純粋状態でその世界の音声を曲がりなりにも驚きをもって体感したいからだと思う。それ以前に、今はほとんど使用しないが、補聴器付着を義務付けられたろう学校時代の経験から始まった、“補聴器を付けてしまった身体性”というものがあり、その身体性から逃れられない僕自身の一部から出てきているのだろう。僕が補聴器で聞く音というのは、聴者が聞く音を基準値とすれば、その100分の1にも満たない不完全という言葉以上の、音とは言えないようなレベルのものだろう。補聴器を通じて伝わるのは、車の走る音、ドアの開閉する音、物と物がぶつかる音といった、音それ自体の即物的なものであり(画面が無かったら、何の音かは判らなくなる)、街に出た時は、混沌とした無限にざわめき続けるノイズだけが現れる。

このように補聴器を付けて音声を曲がりなりにも体感しながら映画を見てきたわけだが、突然の消音というハプニングに遭遇して、僕はあることに気がついた。聴者とは全く違う(補聴器を使った)映画音声への付き合いではあるが、補聴器を付けない時、つまり完全に無音状態で映画を見る時の印象とまるで違うという紛れもない事実が頭の中に唐突に降ってきたのだ。補聴器無しで、TVやDVDを見ることはしょっちゅうあるのだが、映画館で見る時よりは無意識的に画面の移り変わりに身を任せるという感じが大きいので、今回のようにそこまでは気づかない。同じ映画を補聴器無しと補聴器付で見比べてみると、より一層印象の違いがはっきりしてくるだろう。補聴器付きの時は感動したが、補聴器無しの時はあまり感動しなかったということが考えられる。聴者にとっては、音の有無に対しては明らかに違うので当たり前の事ではあるが、ろう者としては、音のない世界で生きているのであり、実際僕の周りでは補聴器無しで映画を見るろう者が、かなりいる。映画鑑賞はそれぞれの個人的楽しみ方があるのだけれど、このような補聴器と映画の関係は、ろう者が映画を撮る時に大きな意味をもたらすのではないかと僕には思えてならない。僕のような補聴器を付けて映画を見てきたろう者と、ずっと補聴器を付けないで完全に無音のままで映画を見てきたろう者が、映画を撮る時には、製作態度、方法論に対する違いが画面に現れる可能性がある。ろう者は音を聞くことはできないけれど、ろう者本人からは音を発するし、どこに行ってもつねに音に囲まれている。ろう者の音に対する意識の行方によっては、ろう者の思想、生き方も大きく異なってくるだろう。ろう者の身体性というのは、単に耳が聴こえないという身体、あるいは視覚的な身体という括りをはみ出した、社会的にも生体的にも密接に絡んだ複雑な身体性なのではないだろうか。