ショーン・ペンという生き方

以前にショーン・ペン監督の5作目である「イントゥ・ザ・ワイルド」を拝見した時は、実際に在った真直ぐな生き方に心を揺さぶられたのだが、ありきたりにも見える「私」探しをテーマにしたこの物語をショーン・ペンが撮ることに戸惑いを感じたのも拭いきれない事実としてあった。だが、先日ショーン・ペンの初監督作「インディアン・ランナー」を見た後では、認識ががらりと変わった。「イントゥ・ザ・ワイルド」も他の4作(オムニバス映画の一編を撮った「11'9''01/セプテンバー11」は未見だが)と同様にショーン・ペンが撮るべくして撮られた映画であったのだと。ショーン・ペンが映画のなかで撮ろうとしているのは、“共有を拒否する魂”のことではないか。どんな時代であろうが、どんな境遇であろうが、本人の持つ過去がどのようであろうが、人間がもつ魂は社会や家族などという共同体とは相容れることはなく、本質的に最初から孤立しているのだ。ポジティブではなく、ネガティブな魂。本人にしか解からない心の最深部に少しでも近づくためにショーン・ペンは映画を撮ったり、様々な役を演じたりしているのかもしれない。理性的にでも感性的にでもなく、人間の根源的な精神状態に真っ向からぶつかろうとしているように見える。根源的ではあるが、様々な時代背景や社会環境とリンクすることによって本人しか持ちえない精神状態イコール魂というのが出現してくる。衝動的あるいはパトスという表現がショーン・ペンを理解するにはうってつけな言葉かもしれない。それがショーン・ペンの生き方そのものなのだろう。「インディアン・ランナー」のヴィゴ・モーテンセン演じるベトナム帰還兵フランクは、家族想いの兄や恋人に見守られながらも、正直であるがゆえに狂暴な生き方を選択せざるをえなくなっていく(バーで兄の残した血が拭い取られた瞬間、プチッと切れるフランクには涙が止まらなかった)。残酷でやりきれないラストではあるが、これも生き方のひとつなのだ。狂暴なフランクに翻弄されながらもそれぞれ負の部分を背負って懸命に生きる兄、父、恋人らの姿は、絶望的であるがゆえに素晴らしくて仕方がない。

なにげないシーンだが、忘れられない場面がある。フランクの母の葬式の時、兄と父が教会から棺桶を運ぶのだが、眼前の道路に大型ダンプが砂埃を舞い上げながら通り過ぎる。その瞬間、人生を悟った表情を父がさらっと見せるのだ。後に起こる自殺を暗示させるシーンだが、些細であるがゆえに見落としてしまいそうな場面をきちんと撮れるというのは、ショーン・ペンの類まれな才能に尽きる。もうすぐ、ショーン・ペン主演、ガス・ヴァン・サント監督「ミルク」が上映されるが、もう待ちきれない。