ろう者と音楽

聴覚障害者のロックバンドを撮った映画「ジャップ・ザ・ロックリボルバー」を観て、ろう者である僕はとても複雑な気分だ。僕も耳が聞こえないが、音楽の世界、特にロックには、憧憬の眼差しをずっと向けている。僕の描く絵画作品にもロックのイメージを借用することがある。ロックする者の生き様が圧倒的な身体表現に直結し、ストレートに我々の心を揺さぶる、その伝わりようは相手がろう者でも例外ではないということだ。ロックというのは、音というよりも言葉なのではないかと思う。つまり、歌詞に作者の想い、メッセージ、生き方が直接に結びつき、それをライブとかで、ビート、歌唱力、パフォーマンスなどをフル活用し、観客の身体知覚の全てに伝達しようとする。まず言葉から始まり、音そのものと戯れる行為はあとから来るという感じなのではないか。だから、ロックは作詞のプロセスが重要であり、最終的にはどんな形になろうが、歌詞を観客に伝えることがロックの第一行為であると思う。歌う時、エモーションの影響によって歌詞の全部が伝わらなくなる事がしばしばあるかもしれないが、それも表現のうちに入るし、表現者の持つ特異性でもあるのだ。このような生命力溢れる表現を目の当たりにすれば、高揚したライブ空間のなかで歌手と観客の一体感が生れるはずだ。

だが、ボーカルの歌詞を手話で表そうとする姿を見ていると、言葉から生れる表現という基本的な行為が出来ていないような印象を受ける。つまりろう者でも手話がなかなか読めないのだ。ビートに合わせた手話、声を出しながらの手話、ろう者にとって、そのような手話は伝わりにくいはずなのだ。そもそも音声言語と視覚言語(手話)は言語体系が全く違う。一つ一つの手話単語を読み取ることは出来ても文としては読めないのであり、音声リズムと手話リズムは一致することは出来ない。ライブの観客は、単に耳が聞こえない者がロックすることに対する純粋な感動あるいは珍奇さを求めに来ているか、ライブ空間の独特な雰囲気にのまれているだけのようにも見える。耳が聞こえない者、聞こえる者どっちにせよ、何かを表現しようとする行為、生き方そのものがロックであると言われれば、たしかにそうかもしれないが、それ以前にロックは作品である。いや、言葉の作品であるはずだ。作品というのは、作者の思考を他者に伝えることが基本である。耳が聞こえない者が歌を歌いたいという、運命に逆らった肉体と精神の奥低から生れる欲動や衝動と、耳が聞こえない者が観客を前にして音を使った表現(金を取るということも含む)をする行為の間には、現実的な大きな隔たりがあるように思えてならない。とはいえ、手話で歌うことの困難さや乖離性とは別のところで、音を発生する身体の存在そのものをストレートに見せてくれる根源的あるいは原始的な魅力もあり、それを否定するわけにはいかない。BRIGHT EYESのメンバーが身体を使って自ら聞こえない音を出す姿には自由と快楽への強烈な欲求がある。ろう者が口から出す発音がなってない声やピアノ、ギターの多少はずれているかもしれないビート感、そのような正常ではない音は、聴者が出す無意識的にコントロールされていく秩序ある音声の正反対にある、無秩序的なノイズとも違うもっと生々しい原始的な音自体そのものになっているのではないか。それはある意味、聴者から見れば初めて聞くような生命感あふれる音に聞こえるかもしれない。聴者である監督がこの映画を撮ったことや、唯一耳が聞こえるメンバーであるドラマーが20年も聞こえないメンバーと付き合ってきたことは、メンバーのもつ純粋さや人間性に惹かれただけでなく、生々しい音に対する驚愕や畏怖から離れられなくなったことのほうが大きいのではないかと僕はふと思ったりする。(ドラムは、聞こえない者が音の表現をするとき一番相応しい道具なのではないか?太鼓をやるろう者は多いし、太鼓の音だけは聴者が聞くに耐えられる音を出すことが出来ると思う。)

映画のなかで「見世物」という言葉がたびたび出てくる。ボーカルもインタビューのなかで、それについて多少認めているし、同情されている意識はあると答えている。だが、「見世物」という言葉以上に、この映画自体が聴覚障害者のロックは「見世物」であるという見方を無意識のうちに絶対化してしまっている。インタビューでメンバーの生い立ち、障害者が社会で生きることの辛さについて執拗に掘り下げているかわりにBRIGHT EYESの命であるライブやリハーサルの映像がとても少ないことはその表れのひとつである。「見世物」とは、一回見ればそれで終わってしまうようなものだ。監督はBRIGHT EYESの音楽を聞いているのではなく、聴覚障害者のロックバンドという偶像性だけを見ている。僕は、メンバーそれぞれの個人的な背景よりも、聞こえない者の身体が音を発生する瞬間や過程、観客との生々しい関係をじっくり見たいのだ。この映画のチラシに書いてある「はみ出し者の美学」にだけとらわれている場合ではない。耳が聞こえない者が格闘する自由と不自由のせめぎあいを経て生れる音自体そのものを聴者もろう者も画面を通して感じたいはずだ。

補聴器をつけて映画を観る僕なので、自信はないが、エンディングクレジットの時、同時にライブ映像が流れるのだが、BRIGHT EYESのライブの音楽ではなく別の音楽が流れているような感じがした。もしその通りなら、とてもありえないことだと思う。