マルレーネ・デュマス

都心から離れた陸の孤島という感じがしないでもない目的の場所にたどり着くと、やたらと図体がでかいハコモノ建築物が灰色の景色からヌッと現れる。先日観たロマンポルノ映画の残像がまだ脳に焼きついたまま、会場に入ると、「あれっ?俺はまだ続きを見ているんだろうか?」とデジャヴに近い奇妙な感覚が脳の中に拡がっていく。
マルレーネ・デュマスの絵は官能的であり、また感情的だからなのだろうか?いや、ここで言う感情的というのは、男性と女性による感情の差異をピックアップしたところの女性が持つ部分のことであり、ロマンポルノ映画で女優がセックスするときに見せていた本能的反応に相通じるなにかをデュマスの絵にも感じたからだ。展示作品のほとんどを裸の人体や画面一杯あるいは画面をはみ出した顔が占めており、会場内には、不安感をともなったエロチシズムが漂っている。会場を回るにつれて最初に持った奇妙な感覚は薄れ、普段通りの脳状態に戻りつつあることを感じた時に、改めてデュマスの絵を見つめると、筆跡と画面の切り方が気になり出した。オイルをたっぷり混ぜた絵の具で薄く且つスピーディに塗られた画面表層はある種の緊張感が現れるのだが、女性にしか出せないと思えるようなモチーフに対するアプローチには、男性である僕が絵の内部まで近づこうとするとどこかで遮られて、はねつけられるような感じもするのだ。同時に共有できないかもしれないその女性的感覚に憧憬を覚えずにはいられないことも確かである。画面の切り方は同じ具象イメージを使用するリュック・タイマンスを彷彿させる。それはどちらも映像イメージを絵画の中に導入しているのであり、映像イメージのなかにどっぷり浸かっている現代人の宿命さと真摯と向き合いながら映像イメージを絵画イメージへと移行している。映像イメージを絵画の中に導入する時、もともと絵画が持っているフレームの問題が一層際立ってくる。画面外を想像するしかない制限された枠のなかで絵画とはなにか?と考える時、映像イメージを借用するとその問答は自動的に伸ばされていく。だからこそ、映像文化である現在においてデュマスの作品は官能的感情的イメージにとどまらず、絵画とはなにか?という絵画的問題にも意識せざるをえなくなるのである。