不条理なエロス

藤田敏八の「八月はエロスの匂い」を観る。掛け値無しの傑作。
デパートの売り子である主人公は、勤務中に手に傷を負わせた強盗と偶然再会し衝動心から後を追って、しまいには情交を結んでしまうのだが、その一連の流れに漂う不条理さには、強烈なカウンターパンチを食らった。‘70年代’と‘不条理’の2つのキーワードが並ぶ日本映画といえは、空前絶後の怪作である鈴木清順の「悲恋物語」が真っ先に思い浮かぶのだが、この「八月エロス」もそれに劣らないくらい、アナーキーを燦々と照らし出していた(後に藤田敏八は、鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」に出演する)。ラスト近くで、主人公と強盗が性交した後、主人公の恋人(?)が現れる。何故か、強盗が恋人に跳びかかり殴り合いをしている間、クローズアップされた主人公の顔に微笑み、清々しい表情が描写されていくその過程には、思わず戦慄する。その後、主人公が運転する車のなかで、なかよく強盗と恋人が放心状態に腰を掛けるのだが、その光景は訳のわからなさを通り過ぎて、映画的な画面に出会った喜びが思わず出てきてしまうのだ。主人公が強盗を思い浮かべる時に、強盗の記号である黄色、あるいは赤白のストライプが全画面に映る。言葉ではなく、パッと見たときのイメージが人間の脳の襞を刺激する。藤田敏八は、視覚的イメージを優位に置こうとする。
映画を見ることは不条理を体感することでもある。字幕無しで観る映画で面白いと思うのは、大体ストーリー性に頼らない、画面そのもので成り立つような映画なのだ。現在、映画の中で不条理を体験することは、おそらく稀な体験になっているだろうと思うし、説明を受けて、因果関係を鵜呑みにし、予定調和的な感動に満足する今日の純愛映画の観客の鑑賞からは、はるか遠いところにある。しかし、不条理を体験することは、人間の本来の姿を拝見することであり、真の世界に近づくことでもあるのだと思う。