「ラッキー・ユー」

この映画の監督であるカーティス・ハンソンは、CGバーチャル優生思想がエスカレートするハリウッドのなかで、映画が持つ基本的というか、オードソックスな造りがもたらす優雅さを孤独に生産しているようだ。男と女の出会い、疎遠になっていた父との邂逅、大会でのバトルなどといった、激動の世界情勢に対するエッジが感じないでもないポーカーの世界を描くこの映画は、小さな映画である。それぞれの人たちが、身の程に合った生き方をしている。それだけのささやかな世界。それでも、この世界は慎ましやかな豊かさがある。エリック・バナドリュー・バリモアというスターはいるものの、それ以外の出演者の顔ぶれを見ると、本当にアメリカ小市民という感じであり、おせじにも画面映りはいいとはいえない社会の隅にいそうな多世代、多階層の人たちが現れる。他の凡庸な映画のエキストラとか脇役には、平均点よりちょっと高めである美男美女がうじゃうじゃ出てきて不自然な感じがするが、この映画は、リアリティな顔ぶれが揃っている。この人選からカーティス・ハンソンの映画的センスとまっとうな倫理性が覗き見られる。(冒頭シーンに出てくる質屋のおばさんはすげー、カッコよかった)

この映画はほとんどずっと人の顔ばかり見ていたような気がする。(ポーカーの映画だから当たり前か)心理的洞察が最大の目的ではあるが、それに先立って人の顔を凝視するその顔には即物的な表現の魅力がある。だから、映画史のなかでクローズアップという技法が必然的に生まれたのだろう。人の顔を見るという行為は、人間が音声という便利なコミュニケーション手段を持っていながらも本能的な部分が出てきてしまう人間の視覚的行為でもある。あるいは、対面的に向かい合わざるを得ない身体性とでも言ったらよいか。(そこでまた映画史は切り返しショットという技法を生み出すのだ)それは映画的でもあり、そして唐突だが、ろう者的でもあるのだ。ろう者は手話だけでなく、人の顔の微妙な表情(それは文法としての要素が優先される)を読み取ることによって会話が成り立つ。ろう者の日常生活行為は視覚的行為であり、映画的でもあると思うのだ。