爆音体感

オリヴィエ・アサイヤスの「レディ・アサシン」「Clean」を見る。どちらも孤独に生きる、年齢的にはもう若くはない女性が出る。二人の女主人公は、歪んだ身体的な痛みをひきずりながら先に向かっていく。日本人との取引でレイプされ、SM行為からくる倒錯的な愛を交わす一方、片方は薬物中毒にかかり、そこから懸命に脱出しようとする。パートナーをもち、知り合いや家族などと次々と出会ったりするのだが、本人はあくまでも孤立したままだ。1人の女性が身をおく場所は、微細化していく情報が無意味に氾濫する現在の世界であり、顕微鏡で見るアメーバの画像さながら、分裂的にざわざわうごめく世界のようでもある。そんな不定形でいろんなモノが入り混じるノイズ的世界では、人間の存在があやふやになり、孤立した女性は身体を痛めつけ、身体の内部から来る感覚的なものを拾おうとする。だが、二人を大きく突き動かしているのは、不自然に変形され、相手が見えなくなったとしても、愛の行為にほかならないのだということを2本ともラストシーンで示してくれる。アサイヤスの映画は他の映画にはない、独特なリズム感がある。対象をぶっきらぼうに追うカメラのせわしない動き、カットつなぎやシークエンスとシークエンスのあいだを荒々しくつなぐ編集、丁寧ではないストーリーの流れ、そのような映画技法が現在の世界を覆う乾いたノイズ感、そして孤立した主人公の疾走感を見事に表現されていると思う。

この2本の映画は爆音上映という通常の上映とは違った形で観ることになるのだが、僕にとってはとても貴重な体験であった。ろう者は聴覚の代わりに眼という視覚的器官から生れる知覚による言動(例えば手話など)を優位に置きがちなのだが、実はそれにおとらず振動による響き、つまり触覚という知覚も僕の身体を大きく占めているのだ、ということを身体全体をもって知らされたからだ。音声や音楽が聞こえない為、判りにくいかもしれないがろう者は聴覚が欠如していても身体がある限り、爆音上映のライヴ音響システムを使うことで、響きという体感によって聴覚というもうひとつの世界に近づくことができるのだ。音声が聞こえなくとも、ろう者の身体も振動を生む空気に囲まれているのだから。(ただ、ここで注意しなければならないのは、人工内耳普及や音声的コミュニケーションの習得という聴者によるろう者への聴覚世界の押し付けに結びつけてはならないことだ。ここではあくまでもろう者自身による発見である。)補聴器も同じ原理だが、爆音上映の場合は身体全体で感じることが出来るのが大きな強みだ。映像の画面を見るときに振動による響きを伴うことで、視覚の感官に触覚という異なる感官が合流し、統合された感覚が身体のなかで共鳴し合う。これまで映画で見てきたものの形、風景、色、輪郭、運動などが違って見えてくる。聴者の世界とろう者の世界の溝は計り知れないほど隔たっているシビアな現実は依然としてあるが、爆音上映はこの隔たりをほんのわずかだが、縮めてくれる場所のひとつになるだろう。世界はまだまだ広い。ほかのろう者仲間にも知らせなくては。