「エモーショナル・ドローイング」

先日、東京国立近代美術館で、「エモーショナル・ドローイング」展を観る。ドローイングといえば、本作品になる前の段階、構想を練り上げる時とか下書きの時などに行われる作業を指すのが一般的な見方になるのだが、本展では、そのような行為からはかけ離れており、ドローイングそのものを本作品(あるいは本作品のように展示する)にしてしまうという、始まりから終わりまで感情をストレートに出すという行為が大きく占領されている。まさにタイトルが示している通りだ。瞬間的、咄嗟的、衝動的であり、方法論あるいは、論理のひとつとして描かれる痕跡はあまり見当たらない。ドローイングという描き方はまず線を引くということ、それから塗りつぶす、というようなまさに心の内面に潜む何かを一気に外に吐き出すことに相応しいシンプルな表現方法として魅力あるものだと思う。だが、感情を外側に引き出しても閉じられた私世界を表すままに留まっているように見えることもある。実際、本展のドローイング作品群を見回してみると、それぞれのマイナーな世界が顕現するのみだ。マイナーな世界というのは、現在の世界に流れる同時代的な潮流の1つだと思うのだが、マイナーな世界を作品にして公的なところで他人に見せることは、一方通行的にしかならないような感じも出てこざるをえない。僕にとっては、ゆらゆら揺れている印象が強いのだが、それは、ドローイングの持つ性質による部分があるのかもしれない。ただ、ドローイングをテーマにした展示ではあるものの、水戸芸術館での「マイクロポップ」展を中心にした現在の日本美術界に流れる傾向と重なっている部分が大きくあるように思えてならない。それを見る側がどう感じるかは、見る側にゆだねるしかないのだが、作品の奥底に他者あるいは外の世界と向かいあえる確かな部分を感じたいと僕は思う。本展でそれが感じられたのは、奈良美智と辻直之の作品だった。奈良の作品は、1点1点の作品が年代順に並べられている。奈良が持つ思考と技術の移り変わりが眼に見えるのだが、長年による変化のなかに、奈良自身が持つブレないものも浮かび上がってくる。辻の作品は、正直ぶったまげた。これは、感情表現ではなく、方法論による感覚の実現だ。記憶という見えないものをこれほど明確に作品に表したのは、これまで見たことがないような気がする。記憶はあやふやながら脳のなかに留まっている、対象物から離れていくこの抽象的な感覚が、辻の作品にはある。(余談だが、僕が学生の時、大学構内で辻さんと何回か、すれ違っていたことを今思い出した。おそらく同学年だったのではないか?)