「殺人幻想曲」(ネタばれあり)

冒頭の空港シーンで周りをよそに熱い抱擁と接吻をする英国人指揮者と美しい若妻。ラストもホテルの一室で熱い抱擁と接吻がクローズアップされ、そのうえにエンドタイトルが被さりこの映画は閉じる。同一人物の2つの同じシチュエーションに挟まれたこの映画の循環的空間では、登場人物、特に主人公の指揮者アルフレッドの様々な観念が離合集散し元の関係に戻るのだが、進歩や新たな展望というものはなく徒労と派手な軌跡だけが残る。しかし、その無意味な循環的空間は映画内ストーリーのなかの登場人物だけのものであって、映画外の僕は荒唐無稽でハイテンションなアクションの連続や不変性にはまってしまう。何が何だかわからないというわけではなく、ハリウッドの黄金時代(1940年代)の映画にふさわしく、緻密に計算されたストーリーの流れ、セリフの言い回しによる会話のつながりが見事に成立していて知的でお洒落な感じで、観る者を最後まで捉えて離さない。アルフレッドは自分よりずっと若い美しい妻ダフネが若くてハンサムな秘書と浮気しているのではないかと雪だるま式に妄想が膨らむ。膨らむというよりは演奏会の3曲に合わせて3つの妄想に分裂していく。というのも浮気の疑惑が晴れずに精神錯乱状態のまま演奏会で指揮をとってしまうからだ。1曲目の妄想は自分のアリバイを完璧にこなし秘書による妻の殺害の状況をつくり、あげくは秘書を死刑にしてしまう。2曲目は秘書と妻に立ち向かい2人を問いつめるのだが、何故かロシアンルーレットを持ち出して秘書の拒否で自分が先頭になり自分の頭を撃ってしまうバカっぷり。そして3曲目は、妻に「おまえは若いのだから秘書と愛し合うのはやむを得ない」と小切手まで用意し自ら潔く身を引く自身の紳士的ふるまいに酔い痴れる妄想が出てくる。この3つの妄想と現実を忙しく行ったり来たりするアルフレッド演じるレックス・ハリソンのプッツンぶりがあまりにもすごくて唖然とさせられてしまう。演奏会と3つの妄想が終わったあと、アルフレッドはホテルの部屋に戻るのだが、妄想の錯綜に頭がイカレてしまう。そのあいだ部屋中をハチャメチャにし、一人芝居のドタバタがエスカレートしていくのだが、その描写がこれまでのテンポよいストーリー進行を分断してしまうくらい不気味なまでに停滞的なのだ。延々とひとりで部屋の物を壊し続ける特異な光景は言葉の空間から実存的空間へ飛躍し、まるで現代美術の映像作品を見ているようだ。不条理的なアルフレッドのドタバタぶりをしばらく見続けると、純粋なアクションだけが浮き上がりひとつひとつの動作の明晰さと人間の孤独さが同時に出現する。セリフの言い回しやセンスのよいコメディ的演技や演出は所詮映画のなかのものでしかないが、この映画の行きつくところには、世間がつくった殻を突き破った、哀愁性、滑稽さを持ち合わせ不可解な言動からくる人間本来の姿が現れてくるのである。ハリウッドで求められる合理性(大衆性)と監督の自由な感性からくる非合理性(芸術性)をひとつのエンターテインメント作品に収めることを成し遂げたプレストン・スタージェスは天才という枠をはるかに超えたとんでもない人物だった。