アナーキスト 大杉栄

衆議院選挙で政局が慌ただしく目まぐるしくなってきているが、新党ラッシュにはうさん臭さと白けが入り交じる。1人しか当選しない小選挙区制度(比例もあるけど)なのに、雨後の筍のように次から次へと新しい政党が誕生し、あげくは合流してしまうへんてこりんな日本の選挙。行き当たりばったりの烏合の衆で政権はつとまるのだろうか?無意味な政治ゲームをこれ以上見たくないが、とりあえず12月16日は投票に行くつもりだ(白紙ではない)。そんななか僕は、有斐閣新書の「近代日本の思想」を読み終えたところだ。この本のなかに登場する思想家は9人(佐久間象山福沢諭吉植木枝盛徳富蘇峰大杉栄尾崎行雄北一輝三木清、大山郁夫)であり、いずれも明治維新から昭和初期にかけて活躍した人物である。そのなかで僕が一番興味をもったのは大杉栄だ。軍人の長男として生まれるが上京後、社会主義運動に身を入れる。しかし米国帰りの幸徳秋水の手みやげであるサンディカリズム労働組合主義)に触発されアナーキストとして行動するようになる。アナキズムとは無政府主義であり、国家や権威を必要としない無国家社会を目指す政治思想であるが、大杉栄ほど精神と身体を一体化して徹底的にアナーキストであろうとした人物は日本では他にはいないと言われている。大正デモクラシーが隆盛していた時期、大杉栄アナキズム活動も同時進行していた。大正デモクラシー普通選挙運動や言論、集会、結社の自由を求める民主化運動であり、吉野作造や大山郁夫らによって民本主義へと発展していくのだが、民衆という社会の下層から政治参加ができるようにしたうえで政治を運用していくという思想から動くのに対して、アナキズムは政治に向かうのではなく労働者階級が自ら解放し自立的に新社会をつくっていくという方向を目指していく。貴族官僚階級、資本階級を打倒する立場は同じであるが、民本主義はあくまでも指導者が中心になり議会政治を目指す縦の運動(インテリゲンチア)であり、アナキズムはあくまでも労働者階級主体で組織を立ち上げる横の運動であるといえばいいだろうか。現在のでたらめな政局(くっついたりはなれたりでは選挙する意味がないではないか)を目の当たりにしていると、議会政治の限界をいやがうえにも感じざるをえない。現在、アナキズムのスタンスである政治の否定はどのように映るのだろうか(現在でいえばマルチチュードの政治概念が近いかもしれない)。「生の拡充」の論理を組み立てた大杉栄は人類的本能から出立する強烈な個人主義者(社会的)であり、既婚者でありながら2人の愛人を持ち、三角関係ならず四角関係という恋愛至上主義者でもあった。社会に対しても恋愛に対してもどこまでも自由であろうとしてきた大杉栄のエネルギッシュな人生をもっと知りたくなってきた。