春風沈酔の夜

新宿で「スプリング・フィーバー」を観る。中国映画第六世代の代表格であるロウ・イエ監督の中国ではまだタブーとされている同性愛を描いた映画であり、中国国内では公式上映を禁じられている。広大な中国社会のなかの微小であり特殊にすぎない人間ドラマであるかもしれないが、連日の日本と中国の政治ニュースで中国人に対するステロタイプにこびり付いてしまった僕の頭のなかをリセットさせられ、むしろ中国人のほうが強力な体制のなかで内面に秘めつつも芸術に昇華できるくらいの現代的な自由な感性をもっているのではないかと思ってしまうほど、この映画はただただ素晴らしいというほかなかった。ストーリーはむしろシンプルすぎるほどだ。男性同士が愛し合い、別れ、別の者と新しい愛を育むその繰り返しだけだ。中国の現実社会からすると最初から同性同士の恋愛をすることはおそらく特殊なことであり、登場人物の男性たちは別の女性と結婚していたり女性の恋人がいたりと最初は一般的な男女関係をもっている。だが、中国という欧米や日本とは違った倫理社会のなかで、ひとりの個人が自然発生的に同性に対する恋愛が芽生えてくる純粋無垢な本能的瞬間をうまく捉えていて、それが随時に画面に出てくる中国の詩(郁達夫の「春風沈酔の夜」の一節)と相俟って弁証法的に豊かな映像イメージを醸成している。この映画では台詞を発しているときよりもただお互いに寄り添っているだけの沈黙のときのほうが何倍も饒舌になる。感情は言葉には変えられないことを我々はもっと肝に命じるべきだろう。色男のジャンと学生のルオとルオの恋人リー(女性)の奇妙な三角関係を保持したままドライブ旅行するのだが、旅行のあいだの3人の微妙な空間が僕の脳の襞を震えさせる。特にカラオケシーンがなんともいえない。3人の言葉にできない複雑な感情がそれぞれ顔の表情やふるまいに完璧に現れている。翌日のリーの失踪が語るように、理性ではどうにもならない恋愛感情に伴う冷酷さや儚さが深夜のカラオケ部屋に一点凝集している。男性2人を前にして無邪気に見せるリーの笑顔が美しく映えていて、とても悲しい。人間が複雑さや不可解を受け入れるにはあまりにも未熟であり残酷なことでしかないが、「スプリング・フィーバー」はその複雑な内面世界を積極的に引き入れているにも関わらず、至極シンプルで透き徹った叙情的イメージの獲得に成功している。